HELLO
2023.6.9
雑記
韓国語学留学を終えた母は、韓国や韓国語のことよりも、一緒に学んだ各国の若者たちのことをよく話していました。「見た目が違っても、みんな同じ人間なんやな」という、当たり前のことを実感したようです。それを実感できただけでも行った甲斐があったと話していました。
曽根崎署からおばの家に向かい、親戚たちとお通夜や葬儀について話し合いました。親戚が勧める葬儀場に連絡し、担当者がおばの家に来て、大小さまざまなことをどんどん決めていきました。結婚式なら持ち帰ってゆっくり考えて決められるものが、お通夜、葬儀は時間との戦いでした。突然亡くなったので、お葬式はどうしたいという希望を聞いたこともなく、だけどもお寺でもヨーガを教えていたくらいなので、仏式でやるのは自然だろうと思い、仏式にしました。
21日に亡くなったので、本当は23日お通夜、24日葬儀にしたかったのが、24日が友引で避けた方がいいということで、かなり慌ただしく22日お通夜、23日葬儀となりました。23日は母の誕生日。本当は韓国で一緒に誕生日を祝うはずだったのにと思いつつ、他に選択肢もない状況でした。
ずっと先のこととは思っていましたが、母が亡くなった時には、ヨーガの関係者に連絡しないとと思っていました。母は私が生まれる前からヨーガをやっていて、30年以上講師を務めました。ただ、いざ直面するとあまりにも時間がなく、とりあえず家族葬にして、ヨーガの関係者には後日お別れ会という形で別途集まっていただこうと思いました。ところが、亡くなったのがヨーガ教室だったのもあり、私からはヨーガの関係者数人にしか電話していないにもかかわらず、すでにかなり多くの人に連絡が回ってるということで、家族葬にせず、来ていただく分には来てくださいということにしました。
おばの家で話し合っている最中、曽根崎署から電話がかかってきて、一度母の家に行って、荒らされた形跡がないか、薬や診察券などがないか、早く確認してほしいと催促されました。従姉の車に乗せてもらい、確認に行きましたが、予想通り、荒らされてもなく、薬も診察券も見つかりませんでした。テーブルには最近私が新しく作った名刺が飾ってあり、いつものように私のために切り抜いてくれた新聞記事が重ねてありました。母の家には私の部屋があり、クローゼットを開けると喪服がありました。
晩ご飯はほとんど喉を通らず、横にはなりましたが、一睡もできませんでした。翌朝、まず電話したのは、かしいけいこ先生でした。母のヨーガの師匠です。長崎の壱岐島にいらっしゃり、母よりも14歳上でご高齢なので、お通夜や葬儀には来られないとは思いましたが、きちんと私から知らせるべきだと思いました。私の電話で初めて知って驚きつつ、7月8日に母が壱岐島に会いに来ることになっていたと教えてくださいました。私が4月に大阪へ戻る時、母に韓国から買って来てほしい物を聞いたら、かしい先生に九尾狐(クミホ、伝説上の生物)の絵本を買って来てほしいと言っていたのですが、7月に会う時に持っていくつもりだったようです。かしい先生も韓国語を勉強されていて、たまに電話や手紙でかしい先生が韓国語でこんなことを言ってきた(書いてきた)と、うれしそうに話していました。葬儀を終えてから、かしい先生に本を送りました。
かしい先生からは、こんなメッセージが来ました。
「ヨーガにはeternal lifeの死生観があります。今となっては、祝福してお見送りしたい気持ちです」
もちろん亡くなって母に会えないという事実はとても悲しいですが、母と死生観についてもよく話していたのと、一緒にインドに行った時の経験もあって、私にはすんなり入ってくる言葉でした。
インドに行ったのは、2018年の夏でした。私はこの年の夏、実は北朝鮮へ行こうとしていました。4月に南北首脳会談があり、劇的に南北が融和に向かった時期でした。何度も北朝鮮を訪問している朝鮮学校の関係者たちと一緒に行こうとしたのですが、私だけ旅行社に断られました。たぶん朝鮮総連がダメだと言ったんだろうと思いますが、理由はよく分からず、関係者の話では元朝日新聞記者だから警戒されているのでは、ということでした。成川彩で申し込んだのですが、パスポートは結婚後の姓なので、それで申し込んだら通るかもしれないと思って母に言うと、猛反対されました。バレたらどうなるか分からない、と。そんな怖いことはないだろうとは思いつつ、母の猛反対を押し切ってまで行きたいわけでもなかったのであきらめました。
北朝鮮に行くつもりだったのが行けなくなったのもあり、母がヨーガの先生たちと一緒にインドに行くのに、私もついて行くことにしました。私は高校生や大学生の時はたまに母が教えるヨーガ教室に行ってヨーガを習いましたが、朝日新聞に入ってからは忙し過ぎてぱったりやらなくなって、体はがちがちに硬くなっていました(今もですが)。ヨーガの先生方にまじって一人ど素人でしたが、私はこの時一緒にインドに行って良かったと、心底思っています。
行ったのは、ヨーガの聖地と言われるリシケシ。アシュラムと呼ばれる道場で寝泊まりして修行に参加しましたが、印象的だったのは、アシュラムのトップの人(?)の部屋で、それぞれ相談したり、質問したりする時間。母は、孫が生まれて歯科を営む息子夫婦が大変なので手伝ってあげたいけども、大阪でヨーガを教えながら高知に通うのは大変で…という悩みを打ち明けました。私にも何度か引退して高知に移住しようか、と話していました。当時すでに70近い歳で、他の職業であれば引退して当然なのですが、私は母が健康な間はできるだけヨーガを教えてほしいと思っていました。私には母にとってヨーガは仕事というよりも生きがいのように見えて、教えるのをやめた途端に老け込んでしまうような気がしていました。
母の悩みに対する答えははっきり覚えていませんが、たしか、子は親の責任だけども、孫は子の責任というようなことをおっしゃった気がします。それよりも記憶に残るのは、そのトップの人(すみません、適切な呼称が思い出せず…)に誰かが「次はどこへ行きたいですか?」と聞いた時、にっこり笑って天を指さしたことでした。講演で世界各国を回ってきたという方なので、次はどこの国にという意味の質問だったのですが、答えは「天」でした。たしかその数カ月後に亡くなったと聞きました。
インドでは亡くなると葬儀はお祭りのようににぎやかに祝う(インドでも様々だとは思いますが)という話も聞きました。この時の記憶もあって、かしい先生の「祝福してお見送りしたい気持ち」という言葉は、ごく自然に入ってきました。
亡くなった翌朝も、葬儀場の担当者が母の家に来て、前夜決められなかったいくつかを決めていきました。一つは葬儀場に飾る母の遺影でした。遺影として撮ったものはなく、背景は加工できるということだったので、今年1月に母と兄一家と私と高知で初詣に行った時の写真を使おうと思っていました。ただ、担当者に見せると、悪くないけども、母の片方の肩が上がっているのが修正できないので、もし他にも写真があれば見せてほしいと言われました。
私も兄もスマホの母の写真を探しましたが、適当なものが見つからず、焦って母のアルバムを開きました。コロナの間に整理したようで、私の見たことのないアルバムでした。開くと1ページ目に私と兄の幼い頃の写真が貼ってあり、その下に母の手書きの文字で「私のたからもの」とありました。また涙があふれそうでしたが、とにかく遺影になる写真を探さないととページをめくり、見つけたのがインドに行った時の写真でした。とても母らしい、いい笑顔で、担当者もこれなら良さそうだと言うのでホッとしました。横には私が写っていましたが、爽やかなブルーの背景に加工してもらい、娘としては満足な遺影となりました。
2023.6.4
雑記
新大阪駅のホームでは、東京から駆け付けた夫が待っていました。すでにおば(母の姉)の家に大阪の親戚が集まっていて、そこへ向かうつもりでした。高知の兄はいったん高知空港に向かっていたところ、私から亡くなったという電話を受け、喪服をとりに家に戻り、一家(子どもが2人います)で車で大阪に向かうことにしたというので、私よりだいぶ遅れる見込みでした。
新幹線の中で電話をかけたり受けたりしている間、知らない番号からかかっていたのでかけ直すと、曽根崎警察署でした。病院以外で亡くなった場合は事件性の有無を警察が調べるそうで、私や兄の到着を待たずに病院から警察に母が移送されたことは親戚から聞いていました。その電話は「お母さんに会いたければ、曽根崎署に来たら対応します」という内容で、会えるなら会いたいと思ってタクシーで曽根崎署に向かいました。
恐る恐る見た母の顔は、びっくりするくらい穏やかな顔でした。私はこの時まで母がどういうふうに亡くなったのか詳しいことは知らず、苦しい顔をしているものと思い込んでいたので、少しホッとしながら、母の冷たい顔を触りました。「お母さん、ありがとう」としか、かける言葉はありませんでした。
担当者はこの日当直で、何時に来ても対応できるということだったので兄に電話し、「お母さんの顔、見てあげて」と言うと、ここで初めて兄が泣き崩れました。実感がわいたんだと思います。
まだ事件性の有無がはっきりしないということで、その日母が持っていたかばんは返してもらえませんでした。生徒さんの目の前で亡くなったので、事件性も何も…とは思いましたが、警察の方でも、そんなに急に元気だった人が眠るように亡くなるのは変で、死因特定が難しいということでした。
私は今回は大阪へ来る予定がなかったので、母の家の鍵を持って出ておらず、母のかばんの中から鍵だけでも返してほしい旨伝えると、翌日また曽根崎署に返しにくるよう言われました。母が通院していなかったか、薬を飲んでいなかったか、聞かれましたが、普段から本当に病院にも行かない、薬も飲まない母で、4月に母の家で数日泊った時も、何も飲んでいませんでした。かばんの中にあった手帳を開いて見ても、美容院と歯医者の予約は書いてあっても、その他の病院については一切ありませんでした。それでも、警察からは「家に帰ったら、まず、薬や診察券を探してみてください」と頼まれました。もしかして私が甲状腺がんで手術したばかりで、体調が悪くても言えなかったんだろうかと思ったり、でも23日から韓国旅行なのに、心配なら何か言っただろうと考え直したり、もやもやした気持ちで曽根崎署を離れました。母を警察署に置いていくのはつらかったけど、翌日午前中に監察医が来て調べるまでは仕方がないそうで、家族の思い通りにはならないものなんだと痛感しました。
母の手帳を開いた時、表紙裏のポケットに「筑摩書房新刊」というメモが見えました。私が日本で初めて単著で出す本『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』(5月31日発売)は、誰よりも母が楽しみにしてくれて、筑摩書房に30冊も注文していました。ああ、結局母に読んでもらえなかった…と、もっと早く出していれば…、ゲラ刷りのPDFでも送っておけば良かった…という後悔がよぎりました。
母のかばんの中にはスマホもあり、手帳もスマホも返してもらえない状態では母の知り合いに連絡するのが難しく、すぐにお通夜と葬儀に向けて連絡したい遺族にとって、持ち物を返してもらえないというのは、本当に困ることだと知りました。とはいえ、万が一事件性があった場合にはスマホや手帳は重要な証拠になる可能性が高く、返してもらえないことに納得できないというわけではないのですが、こういうことを多くの人が経験しているんだというのを初めて知りました。手帳に書かれた連絡先は写真を撮らせてもらいました。
私が何かを選択する時の基準は、「私が後悔しないように」です。朝日新聞大阪本社に勤めていた頃、認知症の取材を担当したことがあり、かなり多くの認知症の家族を看取った人たちに会って話を聞きました。この時気づいたのは、みんな後悔しているということでした。「あれができなかった、ああしてあげれば良かった、あんなことでけんかするんじゃなかった」と、悔いているのを見て、私は悔いのないようにしたいと思いました。それでも後悔することはたくさん出てくるんだろうけども、残された家族がそれで苦しむのは、亡くなった家族の望むことではないだろうと感じました。
母が子育てを終えたらやりたいと言っていたのは、二つです。インドにもう一度行きたいということ、韓国に語学留学したいということ。やりたいことを全部やらせてもらった娘として、この二つを実現することが目標でした。結論から言って、二つとも、実現しました。
亡くなってから、母のことを「利他の人でした」と言ってくれる人がたくさんいました。母は自分以外の人たちには尽くすけども、自分のことに関しては本当に欲のない人でした。だから、私にはずいぶん前からインドに行きたい、韓国に語学留学したいと言っていたのに、なかなかそれを実行しようとはしませんでした。家族やヨーガの教室が気がかりだったのだと思います。
先に実現したのは、韓国語学留学でした。2016年に3カ月間、ソウルの慶熙(キョンヒ)大学に留学しました。66歳で行って、67歳の誕生日は留学中に迎えました。教室で外国人の若者たちに囲まれて誕生日を祝ってもらう写真を見せてくれました。
実はこのタイミングで私も朝日新聞を辞めて、一緒に留学するつもりでした。私は2016年1月に会社の上司に退社の意図を伝えましたが、育休・産休などで空席があるのもあって、せめて今年いっぱいは勤めてほしいと言われました。迷いましたが、お世話になった会社をできるだけ円満に辞めたい気持ちもあり、結局2017年1月に退社しました。
とはいえ、すでに母は4月から3カ月のヨーガ教室の代行を頼んでいて、行かないのはもったいない状況でした。最初の数日は同行して家探しなど手伝って、3カ月の間にもう一回、母に会いに行きました。毎日課題でいっぱいいっぱいで他に何もできないと嘆いている母を見て、本当にまじめで不器用な人なんだと思いました。
母の歳で3カ月韓国に語学留学というのは、韓国語も勉強しながら、韓国生活を楽しむものだと想像していました。好きな映画やミュージカルも見て、謳歌してくれるものと思っていたら、毎日授業の後も課題ばかりやっていて、「お母さん、別に点数悪くてもいいやん。やりたいことやってよ」と言っても、あまり響かないようでした。
実は家でもずっとそうでした。家事以外の時間はずっと、ヨーガをしているか、ヨーガの勉強をしているか。そして食後は韓国映画かドラマをちょっと楽しむ。何をそんなに勉強することがあるのだろうと思いますが、ヨーガは単に体操ではなく、瞑想、宗教、哲学であり、深く深く、勉強していました。インドにもう一度行きたいと言っていたのも、ヨーガの修行のためでした。
韓国語学留学の経験は、「66歳からの韓国留学」というタイトルで、神保町の韓国ブックカフェ「チェッコリ」で報告しました。この時のこともあり、チェッコリの金承福社長は母の訃報を聞き、お花を送ってくださいました。私もチェッコリで何度かトークをしたことがあり、今回の新刊記念で6月15日にトークをさせていただく予定です。母が亡くなる前に決まっていたものですが、チェッコリもまた、母の思い出のある場所です。
2023.6.2
雑記
5月21日、母が亡くなりました。本当に突然のことでした。
5月23日が74歳の誕生日で、この日から4泊5日、韓国へ旅行の予定でした。私は5月21日は福岡出張中で、22日に韓国へ戻り、23日に母と仁川で合流してソウル、済州の旅を一緒に楽しむことになっていました。「誕生日プレゼント何がいい?」と聞いてもいつものように「何も要らない」と言うので、「じゃあ、おいしいケーキ買って一緒にパーティーしよう」と話していました。ソウルで一緒に見るミュージカルも予約して、旅行のことで何度も電話でやりとりしましたが、どこか体調に不安のあるような話は一切ありませんでした。
母は私から見れば、何でも一生懸命、まっすぐすぎて、ちょっと不器用で、かわいらしいところもある、そんな人でした。母ですが、親友のように仲が良く、見た映画やドラマ、読んだ本、出会った人のことを、その都度電話で話していました。いつもおもしろがって聞いてくれたし、私が勧めた映画やドラマは見られる限り、見てくれました。
私の結婚式の時、母への手紙の中ではこんなエピソードを話したのを覚えています。
私が幼い頃、父と母が離婚し(その後同じ父と再婚し、また離婚しました)、私は母と家を出ました。母と2人暮らしの頃、たぶん4歳くらいだったと思います。雨の日に傘を差しながら、自転車のかごいっぱいに買い物を入れ、私が後ろの子ども用のイスに座って、よろよろと自転車をこぐ母。私は幼いながら、「お母さん、危ないな」と思っていたら、案の定自転車が倒れ、母は本当に泣きそうになりながら、「彩、大丈夫? けがしてない?」と慌てふためいていました。幸い、どこもけがなく、私は余裕の笑顔で「お母さん、車買おうね」と言いました。
シングルマザーとなった母がお金があるのかないのか、4歳だったので、まったく分かってなかったと思います。母は私の言う通り、車を買いました。ドアもまともに開け閉めできないようなおんぼろの車でした。
私は今年3月半ば、甲状腺がんで韓国で手術を受けました。幸い初期で、手術すればほとんど心配のなさそうなものでしたが、声がなかなか回復せず、母はとても心配していました。日本で手術することも考えましたが、私が韓国で住んでいる所から徒歩圏内に国立がんセンターがあり、私と周りの負担を最小化するため、韓国で受けました。
当然、母は付き添いに来ようとしましたが、付き添いはコロナの影響で1人だけで、韓国の友達が会社を休んで付き添ってくれることになりました。私としては韓国語が片言の母が来てくれても、患者の私が母のケアをする余裕がなさそうだったので、元気になったら韓国に遊びに来てとお願いし、それが5月23日からの旅行でした。
母が心配しているので、とりあえず元気な姿を見せようと4月上旬に一度、大阪へ行きました。それが生きている母に会った最後となりました。いつも帰国時は、最寄りの駅まで迎えに来てくれる母ですが、この日は「関空に迎えに行く」と言い、私は笑いながら「お母さん、車で来てくれるんじゃなかったら、関空来てくれてもあんまり意味ないで」と言いましたが、「いいの、行くから!」と、有無を言わさぬ勢いで、来てくれました。
その日は雨で、最寄り駅から母が傘を差して私のトランクを引き、私が何度も「お母さん、いいよ、彩が引くから」と言っても聞き入れず、雨の中ガラガラと家まで引いてくれました。
翌朝、母は「彩、お母さんちょっとしんどいから、朝ご飯適当に食べてくれる?」と言っていつもより2時間ほど長く寝ました。起きてきて、「やっぱり無理したらあかんな」とぼやいていて、私は大昔の自転車転倒事件を思い出していました。
私は母が2時間眠っている間、内心ヒヤヒヤした気持ちでいましたが、起き上がってくると元気で、その日は一緒に黒門市場に行って(私の取材のため)、おいしい天ぷらそばを食べ、私の服を買いに行きました。手術の跡が見えないよう、ハイネックの服を買うためでしたが、4着全部、気前よく母が買ってくれました。いい、いいと何度も私が出そうとしましたが、手術の時に韓国に行けなかった代わりなのか、とても強引でした。
私が中学3年生の時に2度目の離婚をして、決して経済的に余裕のある環境ではありませんでしたが、母はヨーガ一つで生計を立てて、兄と私を育て上げました。私は留学して大学院まで、兄は浪人して歯学部で、一般的に大学に通うよりもずっと長く、母のすねをかじりました。中学、高校の友達はそれなりに私の家庭環境を知っていましたが、大学に入ると、なぜか私は裕福な家庭で育ったと勘違いされることが多く、そのことを母に言うと「だってお母さんがお嬢様みたいに育てたもん」と、うれしそうでした。そういえば、私は母と最初に家を出た時も、駅前のバレエ教室を通るたびに見るバレエに憧れ、「彩、あれやりたい!」と言って習わせてもらいました。お嬢様みたいに、とは口が裂けても言えないけど、でも、母はやりたいことはすべてやれるようにと、いつでも全面的にサポートしてくれました。
お葬式の時、母と家族のように親しかった人(私も母と一緒によく会っていました)に、「母に関空まで迎えに来てもらえた1カ月前の自分がうらやましい」と泣きながら言いました。これから大阪へ行くたびに、母に迎えに来てもらえない寂しさを味わうんだろうなと思うと、それだけでも涙があふれてきました。
母は長年ヨーガ(母はヨガではなく、ヨーガと言ったので、ここではヨーガとします)の講師を務め、指導者を養成する立場でもあったので、お弟子さんがたくさんいることは知っていましたが、亡くなって、お弟子さんたちから話を聞いたり、母が書き残した文章、亡くなった時の様子を聞くにつれ、私がよく知っている人間らしい母よりも、「聖者のような人だった」と思えるようになってきて、娘が言うのも変ですが、不思議な気持ちです。
今日は高知のお弟子さんに電話しました。あまりにもバタバタで、大阪のヨーガの関係者はある程度お通夜、お葬式に来てくれましたが、高知のお弟子さんまで連絡する余裕がありませんでした。母は10年間高知でヨーガを教え、大阪へ戻ってからも、かなり長い期間高知へヨーガの指導に通っていました。
そのお弟子さんは、母の訃報を聞いて、高知で歯科を営んでいる兄の所へ訪ねて来て、母がかつて目がよく見えない自分のためにヨーガの本をテープ何本分も録音してくれたという話を聞かせてくれました。それを兄と私に伝えたかったそうです。今日電話した私には「お母さん、早かったけど、でもやることはやりきって逝かれたのかもって気もするね。本当にヨーガをしながら、蓮華座を組んだ状態で、亡くなられたんでしょ?」と言われました。
そう、信じられないようなことですが、母は、ヨーガをしながら、蓮華座というヨーガの基本のポーズ(パッと見はあぐらのような姿勢)をした状態で、生徒さんたちの目の前で亡くなりました。
5月21日、私は福岡にいました。前日、午前中に西南学院大学で講演をし、午後はKBCシネマで『オマージュ』の上映後、シン・スウォン監督とトークを終え、この日はシン監督と糸島にレンタカーで遊びに行っていました。
私が最後に母へ送ったラインは、シン・スウォン監督とトークをしている写真です。私は単にシン監督のファンというだけでなく、シン監督の一言に影響を受けて朝日新聞を辞めて韓国へ映画を学びに留学したほど、シン監督は私にとって特別な存在です。そんなシン監督の作品がやっと日本で劇場公開され、一緒にトークイベント、というのは私の一つの大きな達成感を感じるイベントでした。母もシン監督のデビュー作『レインボー(虹)』が2010年になら国際映画祭で上映された時(この時私はシン監督の通訳を担当しました)に見ていて、その後もソウル旅行中にちょうど『冥王星』がソウルで公開中で、シン監督と出演者のトーク付で私と一緒に見て、『オマージュ』は大阪の劇場で一人で見て「すごい良かった」と話していました。母は実家がかつて映画館を営んでいたのもあり、古い映画館が出てくる『オマージュ』は特に感慨深いものがあったようです。トークが終わって、見に来てくれた福岡の知り合いとシン監督と私で居酒屋に行き、いろいろ話していたなかで、私は祖父母が営んでいた映画館の写真と、その前で撮った幼い母の写真を見せました。釜山国際映画祭の執行委員長を長年務めたキム・ドンホさんが今、映画館にまつわる短編映画を撮っていて、母の実家の映画館の写真を見たいと言っていたので、4月に母の家に戻った時に写真を探し、スマホで撮っていたものでした。
話がまた逸れましたが、糸島でまずは海を眺めながらゆっくりお茶をして、お昼ご飯の店に入ったら人気店で順番待ちでした。名前と電話番号を書いて、店の前の港でぷらぷらしていた時、義姉(兄の妻)から電話がかかってきました。めったにかかってこないので、ドキッとしながら受けると、「まだ詳しいことは分からないけど、お母さんがヨーガの教室の間に倒れて、意識不明で病院に搬送されたみたい」ということでした。私はその場に座り込んで泣きじゃくり、シン監督が何事かと心配して駆け寄ってきました。
電話の内容をシン監督に伝えながら、私はなんとなく、母と今生でのお別れのような気がしました。倒れたというNHK文化センターに電話をして状況を聞いたら、「心臓マッサージもしたんですが…」ということだったので、覚悟をして、心苦しかったけどもシン監督を糸島に残したまま、博多までレンタカーを走らせました。とにかく私が今取り乱して事故でも起こしたら大変なので、しっかりしないとと思いながら、でもいろんな思いがよぎって涙があふれながら、運転しました。返却する数分前からスマホが何度か鳴っていたので、たぶんそうだろうとは思いましたが、返却してすぐにかけ直したら「彩ちゃん、お母さんダメやったわ」と真っ先に病院に駆け付けた従兄が伝えてくれました。「玄ちゃんには彩ちゃんから言ってくれる?」と言われ、すぐに兄に電話をかけましたが、「え、どういうこと?」と、まったく理解できない様子でした。飛行機の時間を検索する気力もなく、とにかく博多から新大阪へ向かう新幹線に乗り込みました。
新幹線の中でも、迷惑なのは承知で、いろんな所に電話をかけたり、かかってきたり、あっという間に新大阪に着きました。
2023.5.10
映画
このたび、5月末に筑摩書房から『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』という本を出版します。もうかれこれ執筆を始めて2年半ほどになり、その間、韓国映画とドラマの本を書いていると言っても、「どんな本?」と聞かれるとうまく答えられず、ちょっともどかしい感じでした。
こんな本です! と言える日がやっと来た。執筆が遅れ、これは本当に世に出るのかしらと不安になることもありましたが、なんとか、本当に出るみたいです。
韓国では2020年に『어디에 있든 나는 나답게(どこにいても、私は私らしく)』という本を出しましたが、これは中央日報の連載をもとにしていたので、そこまで生みの苦しみというのはなく、今回はゼロから編集者と目次を考え、こつこつ書き進めたので、ああ、本を出すのってこんなに大変なのかというのを初めてまともに経験しました。とはいえ、まず原稿ゼロの状態で「書きませんか?」と編集者に声をかけてもらえたこと自体、とても幸せなことで、やっと形になった今となっては感謝以外ありません。
内容についてざっくり紹介すると、全部で5章。
第1章 あいさつは「ご飯食べた?」
第2章 家族の存在感
第3章 #MeToo運動を経て
第4章 格差社会と若者の苦境
第5章 激動の韓国現代史
という感じです。
私自身が「なぜ?」と思ったことと、周りから「なぜ?」と聞かれること、その両方の答えを探してみました。特に2020年からコロナ禍でネットフリックスを通して韓国ドラマを見る人が増え、これまで見ていなかった新聞社の先輩とか、いろんな人からドラマで見ていて気になることを聞かれるようになりました。即答できるものもあれば、そういえばなんでだろうと調べるものもあり、それがこの本の執筆につながりました。
例えば第1章の①は「チキン店が多いわけ/早期退職者のお手軽開業」
とにかくドラマ『愛の不時着』以来、日本で韓国のチキンに対する関心がグーッと上がって、コロナ禍で韓国チキン店が日本でもいっぱいできたけども、それでも韓国のチキン店の多さにはまったくかなわない。世界のマクドナルドの総店舗数よりも韓国内のチキン店の数が多いくらい。
『愛の不時着』のほか、ドラマ『応答せよ1997』(おきまりのサッカーテレビ観戦時のチキン。そしてそれはやっぱり日韓戦。これは『愛の不時着』も同じ)、そしてチキンの映画と言ってもいいくらいのメガヒット映画『エクストリーム・ジョブ』に言及しながら、韓国のチキンにまつわるあれこれを書いています。
映画・ドラマそのものよりは、その背景になっている実際の韓国にフォーカスした内容です。
興味のある方、お読みいただけるとうれしいです。
2023.3.27
映画
キム・ジウン&キム・ドヒ監督のドキュメンタリー映画「差別」が韓国で公開中で、私は2021年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭の時から何度か見ていたが、未見の友達と一緒に見に行った。
キム・ジウン&キム・ドヒ監督との付き合いは前作のドキュメンタリー映画「航路 済州、朝鮮、大阪」が大阪で劇場公開された2015年から。この映画も在日コリアンにまるわる映画で、特に理解の難しい「朝鮮籍」について、韓国へ入国できない(政権によって変わる)という問題を2人の在日演劇人を対比させながら描いていた。この時私は朝日新聞大阪本社所属で、監督へインタビューしたのをきっかけに親しくなった。2人は釜山の監督で、釜山国際映画祭に行くたびに一緒に飲みに行くようになった。
「差別」は朝鮮学校無償化訴訟を追った映画で、私は監督たちが訴訟判決が出るたびに日本へ撮影に通っているのをずいぶん前から知っていた。朝鮮学校を高校授業料無償化の対象から除外したことをめぐり、朝鮮学校側が国を相手取って起こした訴訟で、東京、大阪、名古屋、広島、福岡で訴訟を提起したが、最終的にはいずれも原告敗訴となった。敗訴のニュースが流れるたび、監督たちの顔が目に浮かんだ。原一男監督のドキュメンタリー映画「ニッポン国VS泉南石綿村」のように原告勝訴となれば、映画もドラマチックな結末を迎えられるが、原告敗訴では厳しいだろうと思ったからだ。
「差別」の韓国での公開(3月22日)に先立ってソウルで開かれた試写会では上映後のトーク進行役を頼まれた。この日の登壇者はキム・ジウン&キム・ドヒ監督のほか、映画に主役級で登場する俳優のカン・ハナさん、キム・ミングァン弁護士、そして「朝鮮学校『無償化』排除に反対する連絡会共同代表の佐野通夫先生の計5人+司会の私。
写真は俳優のカン・ハナさん。映画撮影当時は朝鮮学校に通っていた
1時間にわたっての質疑応答、通訳としては何度も経験しているので、韓国語での進行とはいえ、通訳する時みたいに必死でメモする必要もなく、登壇者の皆さんもよくしゃべってくれて、案外楽だった。
この試写会後のトークと、公開後に見た時の上映後のトーク、共通して出てきた話の一つは、朝鮮学校の生徒へのインタビューシーンで、祖国は北朝鮮、故郷は韓国と答えた点だった。これは多くの韓国の人にとっては理解の難しい部分なのかもしれない。
在日コリアンの多くが朝鮮半島の南側(分断前)出身だが、祖国の言葉や文化を学ぶ学校を支援したのは、北朝鮮だった。韓国系の学校もあるにはあるが、朝鮮学校に比べると少ない。その他にも様々な背景はあるが、印象的だったのは、キム・ジウン監督の「仮に北朝鮮を支持していたとしても、だからといって、差別されていいのか」という指摘だった。
この訴訟にはキム弁護士のような在日だけでなく、日本人の弁護士もたくさん参加した。それは朝鮮学校を守ろう、というだけでなく、国による差別に抗議するという意味合いも大きかったのではなかろうか。裁判の結果は原告敗訴だが、日本でも韓国でも支援の輪が広まり、こうやって映画にもなって、この問題について考えるきっかけができたのは、訴訟を起こした最大の成果だったように思う。
日本では大阪のシネ・ヌーヴォで4月1日から上映予定だそうです。
2023.3.8
地方旅
3月6日にオープンしたこのサイトですが、お褒めの言葉のほとんどが「デザイン」で、うれしいのはうれしいけども、中身もちゃんとしないと「箱だけ」になっちゃう。ということで、ちゃんと南原の旅の続きを書きます。
2月に訪れた南原は「春香伝」の舞台として知られる街で、最も有名なのが広寒楼(광한루、クァンハンル)。「春香伝」といえば、パンソリの演目の一つだが、繰り返し映画化されている韓国で最も有名なラブストーリー。私が初めて見たのはイム・グォンテク監督の「春香伝」(2000)だったが、それ以前にも何度も映画になっている。イム・グォンテク監督の「春香伝」ではモンリョン役をチョ・スンウが演じていた。これがチョ・スンウのデビュー作で、デビュー作からカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、レッドカーペットを歩いた。
朝鮮時代、両班(ヤンバン)と呼ばれる上流階級の息子モンリョンと、妓生の娘、春香(チュニャン)の身分を超えた愛。2人が出会ったのが、広寒楼だった。モンリョンが都へ行っている間、春香は新たに赴任してきた悪代官に迫られるが、貞節を守り、怒った悪代官に投獄される。南原に戻ってきたモンリョンは春香を助け出し、2人はめでたく夫婦となって幸せに暮らすというお話。
韓国で人気の物語の典型と言われていて、いわゆるシンデレラ・ストリー。最近はだいぶ変わってきたが、少し前まで韓国ドラマは財閥御曹司と一般家庭の、あるいは貧しい女性主人公とのラブストーリーが多かった。
広寒楼は池のほとりに建っていて、私が行った2月は池の一部が凍っていた。寒かったけど、広々とした広寒楼苑という庭園になっていて、ゆっくり散策を楽しんだ。敷地内の「春香館」には「春香伝」にまつわる様々な展示があり、一番びっくりしたのは、「朝日新聞」だった。
なんと1882年の朝日新聞に「春香伝」が連載されていた。朝日新聞は1879年に創刊なので、創刊して間もない時期。どういう経緯で「春香伝」が連載されたんだろう…。今度調べてみます。
2023.3.6
雑記
本日(2023年3月6日)、個人のウェブサイトをオープンしました。
遡ること、昨年1月末(だったかな)、常日頃お世話になっているクオン(神保町の出版社で、韓国ブックカフェ「チェッコリ」を営む)の金承福社長から、「何でも気軽に書ける、個人のウェブサイト作ったら?」とアドバイスをもらったのが始まりでした。そして今日、これは偶然ですが、ソウルで金承福社長とランチをして、「社長のアドバイスのおかげで、こんなステキなウェブサイトができました」とご報告しました。
これまで連絡先を公開していなかったため、執筆しているメディアや所属している研究所などに私宛の問い合わせがいったり、SNSのメッセージで「これしか連絡先が分からず…」と申し訳なさそうに仕事の依頼が来たりと、周りに迷惑かけてるなと思ってました。
2017年1月に朝日新聞を退社し、その年の3月から韓国の大学院に留学。そこからなんとなくフリーランスで仕事を始めたので、「何をやっているのかよく分からない」と指摘もよく受けていました。
それらを解決するためにも、ちょっとぜいたくではあるけど、ウェブサイトを作ろうと思い立ち、相談したのが、ウェブサイトを作る仕事をしている高校時代の友達でした。
こっちはかるーい気持ちだったのが、すごい本格的にデザインをやってくれる会社で、写真撮影から、アイディア会議(私も会社に出向いたり、韓国からズームでも何度か)から、本当にその過程自体が私には一つ一つ新鮮で、ああ、プロのデザイナーというのはこういう仕事をやっていたのかと、目から鱗でした。
私の話(やっていること、やりたいこと、大事にしていること、サイトを通して伝えたいことなど)を聞いたり、私の書いたものを読んだりして、私と私の仕事について特徴を捉えてくれて、それをデザイン化するという作業。そして、当初考えていたのとは次元の違う、とっても個性的でありながら、見やすい、このサイトが誕生しました。本当にありがとうございました。
すでに「見積もり聞きたい」という連絡が私のもとに届いているので、ウェブサイトを作ってくれた会社をここに明記しておきます。
株式会社ダンスダンスデザイン
https://dddesign.jp/
2023.3.2
言語
2月に発売された『世界のふしぎな色の名前』韓国語版、翻訳したパク・スジンと成川彩が振り返りました。
パク・スジン(以下、スジン): 最初に『世界のふしぎな色の名前』の翻訳について依頼が来た時、やろうと思ったポイントは?
成川彩(以下、彩): 色についての小話がおもしろく、訳しながら色についてのいろんなエピソードを調べるのも楽しそうだと思った。スジンは?
スジン: 最初、試しに三つの色についての話を訳した時、正直言って一つ一つが短くて、おもしろい翻訳作業になりそうだと思った。本格的に始めてからは、考えが浅かったとちょっと後悔した。
彩: どういう点で難しかった?
スジン: 色の名前の誕生についての話で、エピソードが明確で、情報を得られるものは良かったけど、抽象的だったり、「二人静」のような日本の伝統文化にまつわる話が難しかった。日本独特の色の名前を韓国語にいかに翻訳するかというのも迷った。
彩: それは私も迷った。例えば「昆布茶色」は、内容を読めば、昆布みたいな茶色で、昆布茶の色ではないんだけど、それを韓国語で「다시마차색」と発音通り訳してしまうと、「茶色」というのが伝わらない。結局、「다시마갈색」とした。何が正解ということはないと思うけど、できるだけ原文の意味を生かしつつ、韓国の読者に読みやすくというのを両立させるのが一番難しかった。
スジン: 私はオンニ(彩)と一緒に翻訳作業をしながら、そういう日韓の違いについてチェックを受けながら訳すことができて良かった。今回は翻訳期間があまりにも短くて、情報を調べる時間が十分になかったけど、オンニもその点で難しかったのでは?
彩: 実質、翻訳期間は一冊まるまるで1カ月半だったもんね。私もとにかく調べるのに苦労した。「鈍色」では『源氏物語』の引用部分があって、古語なので日本語でもどういう意味なのか解釈が難しいのを韓国語に訳すのは本当に難しかった。
スジン: 『源氏物語』とか『万葉集』とか、日本人なら当然知っている書物の名前を韓国の読者に対してどこまで補足説明するのかというのも悩んだところ。あまり補足説明が多くても読みにくくなるし、加えたり削ったり、基準を決めるまでに時間がかかった。
彩: 逆に翻訳していておもしろかったこと、あるいは新たに学んだことは?
スジン: 知らなかった色の名前について知るのがまずおもしろかった。例えば、醤油の色を「紫」ということ、特に紫は昔から高貴な色で、だから貴重な調味料だった醤油を「紫」と言う、というのもおもしろいと思った。江戸時代には紫の使用は庶民には禁じられ、似た色を工夫して作り出し、それを「似紫」と呼んだというエピソードなど、時代背景がつながって勉強になった。
オンニは日本語を韓国語に訳すなかで新たに学んだことがあった?
彩: そもそも、韓国の色の表現がとっても多彩で、例えば黄色でも、노란、노랑、노르스름、노리끼리、누런……などなど。それぞれどう使い分けたらいいのかよく分からず、もっと多彩な表現をしたかったけど、そこは私の韓国語力の限界だった。今回の翻訳を通して色に関する韓国語の語彙力はかなり伸びたと思う。
一番好きな色は?
スジン: もともと青が好きで、「ティファニー・ブルー」とも呼ばれる「ロビンス・エッグ・ブルー」。ロビンという鳥の卵の色なんだけど、ロビンという鳥は「幸せを運ぶ鳥」とされ、幸福感を味わえる色なのが良かった。
彩: 本が出来上がって、何人かにプレゼントしたら、中のカラフルな見た目にみんなが喜んでくれるけど、確かに「ロビンス・エッグ・ブルー」の鮮やかさは特に目を引くよね。
スジン: オンニはどの色が好き?
彩: うーん、「常盤色」かな。ちょっと地味な気もするけど、変わらぬ緑。自然いっぱいの高知で育った私には、やっぱり一番自然のベーシックな色が落ち着く。変わらないことへの安心。色の名前にもそれが表れていて、好きだな。
スジン: スジンと一緒に翻訳してみてどうだった? もともとオンニに来た依頼を私と一緒にしようと声をかけてくれたじゃない?
彩: スジンを翻訳家デビューさせたかった。正直、本当に翻訳期間が短くて、もっとゆっくり心行くまで調べたかったけど、逆にあっという間に本が出来上がって、こうやって手に取って見ると、達成感でいっぱい。しんどかったのも忘れて、またやりたいと思ってしまう。翻訳家デビュー、おめでとう!!!
スジン: 翻訳そのものは1カ月で終わらせないといけないスケジュールで(オンニがチェックする時間が必要で)、できるかどうか、不安でもあったけど、デビューさせようというオンニの気持ちが伝わってきた。大変だったけど、こうやって形になって、一番はオンニに感謝してるし、あきらめなかった私にも感謝(笑)
2023.2.11
地方旅
全羅北道・南原(ナムウォン)に行って来た。韓国で最も有名なラブストーリー「春香伝」の舞台として知られる街だが、今回の目的は、薩摩焼のルーツを訪ねて「沈壽官陶芸展示館」に行くこと。残念ながら館内は写真撮影が禁止だった。
さて、知ってる人は知ってる話だが、鹿児島の薩摩焼を代表する沈壽官(ちんじゅかん/심수관)は、現在15代。もともとは朝鮮半島がルーツだ。豊臣秀吉の命による2度の朝鮮半島への侵攻、文禄・慶長の役。文禄の役が1592~1593年、慶長の役が1597~1598年。と、日本では言うようだけども、韓国では1592~98年を壬辰倭乱(임진왜란, イムジンウェラン)と言い、そのうちの97~98年を丁酉再乱(정유재란, チョンユジェラン)とも言う。ちょっとややこしい。
とにかく、慶長の役(丁酉再乱)の時に南原から連れてこられた陶工たちの中に、沈壽官の先祖、沈当吉がいた。という縁で、南原に「沈壽官陶芸展示館」があると知り、訪ねてみた。
沈壽官については、おそらく司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』で知ったという人が多いと思う。私もたぶんそうなんだけど、今年1月、日本帰国中にたまたま日本橋高島屋で「薩摩焼十五代沈壽官展」をやっていて、十五代のギャラリートークもあるというので、聴きに行った。
今ちょうど沈壽官にまつわるドキュメンタリー映画を日本で撮っていて、ギャラリートークにも監督はじめ撮影チームが来ていた。その関係者から、南原にも展示館があるというのを聞いた。
「沈壽官陶芸展示館」は、春香テーマパークの中にあった。春香伝とは関係ないんだけども、南原に行って分かったのは、南原はどこもかしこも春香〇〇というネーミングだらけ。
展示館の玄関には十四代沈壽官の胸像があった。館内にはたくさんの歴代沈壽官による薩摩焼が展示されていて、薩摩焼の歴史年表など詳しい説明、映像も。それによれば、薩摩焼が世界的に知られるきっかけとなったのは1867年のパリ万博だったそう。幕末から明治へという時期を考えれば、薩摩藩だったというのも、大きかったんだろうな。
私はまだ鹿児島の沈壽官窯には行ったことがなく、今年は行こうと思ってる。館内に展示されてる写真の中には、盧武鉉大統領(当時)と小泉純一郎首相(当時)が十五代沈壽官と共に撮った写真もあった。写真説明は沈壽官窯に訪れた時の写真となってたけど、調べると、たぶん2004年の鹿児島で開かれた日韓首脳会談の時、茶会に十五代も同席して一緒に撮った写真みたい。盧武鉉大統領は沈壽官窯を訪れてるけど、いくら調べても小泉首相と一緒に訪ねたというのは出てこないから、展示館の写真説明が間違ってる。こういうのちゃんとしてくれないと困るな。
私が中高生の時には「豊臣秀吉の朝鮮出兵」と習った気がするけど、それも数行だったかな。でも、韓国に来てみると、壬辰倭乱はすごい存在感で、そもそも光化門のど真ん中に李舜臣(イ・スンシン)将軍(文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いた将軍)の像があるほど、歴史的ヒーローだ。今回、沈壽官をきっかけに壬辰倭乱についても学び直そうと思います。
2023.1.24
雑記
2017年から韓国を拠点に生活を続けいているが、年末年始はたいてい日本へ戻っている。韓国の寒さから逃げたいのもあるし、家族・親戚と過ごす時間でもあるからだが、一方の韓国は旧暦の正月に家族・親戚と過ごす。2023年は21~24日が旧正月の連休だった。
私はそもそもあんまり寂しさを感じない方で、むしろ一人で過ごすのもけっこう好きだが、旧正月の連休に韓国にいると、寂しくないか、ちゃんと食べてるか心配して連絡をくれる人がけっこういる。私なんか年末年始家族・親戚と過ごしながら、誰かが寂しく過ごしてるんじゃないかなんて考えたことがなく、優しい人たちだなと心底思う。
ある日本の友人が「韓国の人はあったかいイメージがある」と言っていた。そういう優しさを韓国語で「다정하다/タジョンハダ」と言う。タジョンは漢字で書けば「多情」だ。たっぷりの情(ジョン)を分けてくれるあたたかい人たち。その情を分ける一番分かりやすい方法が食べ物を分けることだ。
特に旧正月に友人が欠かさず届けてくれる食べ物の一つにジョン(チヂミ)がある。日本ではチヂミと言うが、韓国語では「전/ジョン」だ。日本でよく見るお好み焼きみたいな大きな丸いのでなく、一つ一つは小さく、お肉のジョン、魚のジョン、ズッキーニのジョンなど様々だ。普段も(特にマッコリのあてとして)食べるが、旧正月をはじめ名節の代表メニューだ。家族・親戚で集まって大量のジョンを焼く様子は映画やドラマにもよく出てくる。そのジョンを私にもおすそ分けしてくれるのだ。
私はジョンをもらうたびに、韓国の人のジョン(情)を思い浮かべる。
とは言え、もはや食べ物の心配をしてもらわなくても、連休中も開いている店はけっこう多い。かつては(2000年代前半)本当に見事にどこも閉まっていて、韓国中華のジャジャン麺の出前くらいしか営業してなかった。みんな閉まってしまうというのも、今思えば特別感があって良かったような気がするけども、ほとんど日常と変わらなくなってきた。