2024.11.2
映画
土田真樹さんの訃報を知ったのは、10月29日、金浦から関空行きの飛行機に搭乗してからだった。「えっ!」と一人で声を上げて、スマホの電源を切り、到着まで土田さんのことで頭がいっぱいだった。大阪には昨年5月に亡くなった母の家の片付けに通っていて、それも気が重いのに、実はコロナの間に私が母の家で過ごしていた頃(2020年)、土田さんがわざわざ母の家の近所まで来てくれて、2人で焼肉を食べに行ったこともあった。西田辺の駅に降りると、母の不在と土田さんの思い出が一緒に押し寄せてきた。
当時土田さんは山口の実家で過ごしていて、山口の人は都会の東京や大阪に行くとコロナをとても気にするので、内緒で来たと言っていた。なので私も今まで内緒にしていた。土田さんの実家は洋菓子店(?)を営んでいて、ロールケーキがとってもおいしく、私はいつも「土田ロール」と呼んでいた。この日も土田ロールをおみやげに持ってきてくれた。
土田さんともう会えない悲しみ、近年の土田さんの置かれた状況に対するやるせなさ、怒り、虚無感、いろんなものがふつふつ込み上げて、寝ても覚めても頭から離れない。韓国で韓国映画を専門に取材しているフリーランスのライターというのは、私は私以外に土田さんしか知らず、もっと長く親しく土田さんをよくご存じの方もたくさんいるのは承知で、でも、たぶん「同業者」だから分かち合った苦しみもあったと思う。そのことを中心に書こうと思う。
私が土田さんに最初に会ったのは、定かではないけども、たぶん2014年の釜山国際映画祭だったと思う。私はまだ朝日新聞の記者だった頃で、「さよなら歌舞伎町」の取材だった。韓国の女優イ・ウンウさんが出演していたのもあり、土田さんが関わっていた。韓国映画ファンの私はもちろん土田さんの存在は一方的に知っていて、そのことを伝えると、とてもうれしそうにしてくれて、すぐに親しくなった。
ひと言で言って、とっても優しい方だった。いつもニコニコ、映画祭や試写会の情報を共有してくれたり、知り合いを紹介してくれたり、お世話になりっぱなしだった。私が朝日新聞を辞めて韓国の大学院に留学すると打ち明けた時も「留学準備大変でしょうが、僕ができることがあれば何でもいたしますので、お申し付けください」と、とっても心強いメッセージをくれた。私が他の予定で記者会見に出られない時に代わりに資料をもらってくれたことも何度かあった。コロナ前はかなり頻繁に一緒にご飯に行って、一時は私が「Kリポート」という新しくできたオンライン媒体の編集長を任されて、土田さんに執筆陣に入ってもらったこともあった。2019年だった。かなり安い原稿料だったのに、とってもありがたいと言ってくれた。
今メッセージを見返すと、当初は「原稿料なしにお願いします」とある。土田さんが韓国で所属していた会社と契約を解除した時で、住所を日本に移したタイミングだった。私も同じく当時は留学生としてビザをもらっていたので、突然編集長を頼まれたものの、編集長としての報酬を韓国で受け取ることができず、とっても困った。こういう場合はインボイス作成や手数料など無駄が多いが、日本の口座に振り込むことになる。土田さんは「外国人登録がないとKリポートも面倒くさいのではないかと思われます」と、媒体の方を気遣っていた。もちろん原稿料なしで書いてもらうわけにはいかず、日本の口座へ振り込んだ。
私と土田さんの苦難の時代は、コロナを機に突然訪れた。フリーランスというのは、「ビザ」の問題がとってもやっかいだ。ビザは基本的にどこかに所属する人に出るもので、どんなに韓国映画の記事をがんばって書いたところで、どこかに所属しなければビザはもらえない。ノービザで韓国は3ヶ月滞在できるが、生活者としては、ビザがないと外国人登録ができず、外国人登録がないとあらゆる契約ができない。韓国で韓国の携帯番号や韓国の銀行通帳とクレジットカードなしに暮らすのは非常に不便だ。常に韓国人の誰かに頼らざるを得ず、とても不安定な身分になる。
そういうこともあって、私は昨年自分で韓国に会社を作って、その会社に投資して、投資ビザをもらった。だけども正直、会社を維持するための出費も馬鹿にならず、非常に非効率的なことをやっている自覚はある。こんなこといつまでも続けてられないとも思っている。
そして土田さんは2019年の日本の輸出規制のあおりも受けた。私と違って土田さんは映画のプロデュースもやっていて、日韓合作の企画が止まってしまったと、肩を落としていた。私たちのような日韓で働いている人間には、日本の輸出規制はとっても暴力的に感じられた。
2020年3月、コロナの水際対策でいったん韓国を出るとほぼ再入国ができないような状態になってしまった。私は7月末に留学ビザの期限が切れるまで韓国にいて、日本へいったん帰国した。この時もまだそんなにコロナが長引くとは予想していなかった。ビザがなかった土田さんは先に日本へ戻っていた。日韓両国の外国人に対する配慮のないやり方に、私も土田さんも「酷過ぎる」と不満を打ち明け合った。
困ったのは、賃貸契約をしている家を韓国に残して日本に出てしまったことだ。私も土田さんも韓国に入れない状況で家賃を払い続けた。土田さんはアナログ方式で家賃を払っていたらしく、私がオンラインで土田さんの家賃を韓国へ入金して、土田さんが私の日本の口座に振り込むということを何ヶ月か続けた。二人で「日本の仕事を増やさねば」と話した。土田さんは「韓国にいなくても、携帯電話やその他諸々が毎月引き落とされるので大変です」と嘆いていた。もちろん私も同じだった。しかも携帯電話の料金を払い続けた挙句、6ヶ月で強制解約になって、元の番号が使えなくなった。私は博士課程に入る形で新たなビザをもらい、日本での滞在は7ヶ月だったので、事情を説明したが受け入れられなかった。
2022年1月、土田さんのFacebookの投稿が途絶えていることに気付き、心配になって連絡すると「夏に心筋梗塞をやってしまい、長期入院しておりました。右腕に痺れが残っているため現在はリハビリ中です」と返ってきた。その後コロナが少し落ち着いてきて、土田さんも活動を再開。韓国で土田さんに久々に会った時もお元気そうだったので少し安心した。
2022年9月、土田さんが私に電話をかけたけどつながらないとメッセージが来たので、コロナで日本に帰っている間に強制解約になって番号が変わったことを伝えると、土田さんは 「こちらは部屋を追い出されることになり、来月からは家なしです」と言っていた。土田さんはその後韓国に家のない状態で活動することになった。
私は昨年から自分が手術したり母が急に亡くなったり、会社を設立して投資ビザを取ったり、今年は本格的に博士論文に取り組むことになったり(渦中です)、以前よりも映画祭や試写会に通う頻度が減って、自然と土田さんと会う機会も減っていた。ただ、Facebookで近況は分かり、土田さんは映画祭や試写会を回り続けているようだったので、元気なんだろうと思っていた。最近会った人の話では、かなり辛そうだったという。そして突然知った訃報。1965年生まれで、10月21日に誕生日を迎えたばかりだったので59歳。コロナの苦境がなければ、もっと長生きされたんではと思うと、本当にやりきれない。
私はこんな苦しみを私より若い世代には味わってほしくないと、本気で思っている。韓国文化に興味を持って日本から韓国へ留学に来る若者が増え、うれしい一方で、この若者たちの未来をどうすれば応援できるのか、と考えてしまう。
土田さんはゆうばり映画祭に審査員で行って、そこで亡くなったと聞いた。釜山映画祭の首席プログラマーだったキム・ジソクさんもカンヌ映画祭で亡くなった。映画を愛する人の最期の場が映画祭だった。ヨガの先生だった私の母も、ヨガの教室で亡くなった。ふさわしい場所なのかもしれないけれど、土田さんとの早過ぎるお別れは単に悲しみだけで終わらせたくない気持ちで、この文章を書いた。
土田さん、本当にありがとうございました。お疲れさまでした。
※土田さんの写真は、Kリポート当時、土田さんから提供いただいたものです。
2024.9.9
映画
9月6日、東京都港区の国際文化会館講堂にて、日韓文化交流基金主催トークセッション「日韓×わたしたち」がオフライン、オンラインのハイブリッドで開催されました。
来年2025年 日韓国交正常化60周年のプレ事業として行われ、共に語り合うという参加型のトークセッションは初の試みとなりました。
一橋大学大学院法学研究科准教授のクォン・ヨンソクさん、韓国在住文化系ライター成川彩さんが「これまでの60年、これからの60年」について文化交流を軸に報告し、また日韓の留学生2名がパネリストとして登壇しました。
第一部は、登壇者による報告が行われ、クォン・ヨンソクさんは、「日韓文化交流の歴史と意義」という主題でお話されました。
「この60年は、日韓関係自体が壮大な韓流ドラマのように見え、また今後このドラマがどんなふうに向かっていくのか?というのは若い世代の方々にもかかっている」という導入でのお話に頷きながら、のめり込むように報告を聞きました。
「日韓文化遺産」を選定し、有形・無形の文化遺産として、記憶して記録してまた継承していこう、というお話もありました。ご自身で選定候補として挙げられていたのが、下記のものになります。
この「日韓文化遺産」を公募してみるという案も成川さんから出ました。
韓国的なもの、日本的なものに対する自信を持ちながら、好きであるお互いの国ということを認識し、ライバルの関係から互いの文化を守ってくれる、もっと発展できる、一緒にKJコラボができるパートナーとしていかに日韓を認識できるのかということが大切、というお話にとても感銘を受けました。
続いて成川彩さんの報告
「韓国における日本文化の需要」という主題でお話されました。
なぜ映画「Love Letter」が韓国でヒットしたのか?
そしてなぜ「今夜、世界からこの恋が消えても」が「Love Letter」に匹敵する観客動員数を記録したのか?
など、映画公開時の韓国の背景についてのお話がとても興味深く面白かったです。
NewJeansのハニが松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌ったり、韓国の番組「韓日歌王戦」で日本のヒット曲がそのまま日本語で歌われたり、現在双方で好感度が高い状況になっているようです。1998年に日本の大衆文化が開放されてからも、日本語での地上波放映は難しい状況が長く続きましたが、「韓日歌王戦」は予想を上回る大反響を呼びました。そんな状況なので、日韓俳優が共演するドラマも立て続けに出てくるようで、坂口健太郎とイ・セヨン共演の「愛のあとにくるもの」が今月末から公開予定。こちらの作品は、日韓国交正常化40周年の時にハンギョレ新聞で連載されていた企画のもので、今回ドラマ化されたそうです。
現地在住だからこその肌感覚でのお話は、とても貴重でリアルでワクワクしながら聞かせてもらいました。
パネリストとして登壇された日本人の高麗大学留学生は「異端児だけど大丈夫?」、韓国人の明治大学留学生は「日本と私」というテーマでお話をされました。
2部は参加者の質疑応答
たくさんの質問が寄せられ「持続可能な日韓関係をどう構想するのか?」「過去最大級のK、Jカルチャーブームが巻き起こっていますが、政権が変わることによって日韓関係が冷え込むことがないのでしょうか?」など今後の日韓関係に関する質問がいくつか取り上げられました。
その中で成川彩さんが話していた「過去を避けるのではなく、双方で向き合いながら文化交流を続けていくことが、持続可能な関係のためには大事」ということがとても印象的でした。
また若者の間では、日本人、韓国人と線引きをしなくなったと感じていて、日韓線引きした文化ではなく融合したもの、ハイブリット化していくためにはどうすればいいかということを考えていけたら、という留学生のお話も心に残りました。
3時間に渡るトークセッションは、クォン・ヨンソクさんが「日韓関係を捨てよ、文化に触れよ」と呼びかけ、「考えることは大切だけれど、その前にまず文化を知り、みんなが伝道師をやってみたらいいと思います」という言葉で締められました。
今回は共に語り合うという参加型のセッションで、たくさん若い方が会場に集まり熱心に話を聞き、積極的に意見を述べる姿がとても印象的で今後の日韓関係にとって、とても明るい材料だと感じました。このようなトークセッションがもっと頻繁に行われ、これが日本と韓国双方で行われ発展していくことを願います。
(文:四角 真理子)
2024.8.27
雑記
4月から「朝日マリオン.コム」で月1回の連載「現場発 Kカルチャーの最前線から」が始まりました。映画、ドラマ、K-POPなど、韓国現地からKカルチャーにまつわる最新の情報を発信します。これまでの記事のタイトルは以下です。このウェブサイトにも順次アップ(WORKSにて)しているのでお読みいただけるとうれしいです。
4月:K-POP界を席巻する「栗羊羹」
5月:昭和歌謡にトロット、「日韓歌王戦」に釘付け
6月:世界に広まるキンパ きっかけは「ウ・ヨンウ」
7月:韓国の新常識 MBTI診断
8月:関東大震災の虐殺事件を描くドキュメンタリー映画が韓国で公開
記事一覧のリンクはこちら
https://www.asahi-mullion.com/column/article/kculture
2024.7.3
映画
先日、知人からホン・サンス監督の『WALK UP』を見たかと聞かれ、見てないと答えたら、解説が聞きたかったのに残念と言われ、さっそく見ました。韓国の原題は탑(塔)です。この映画には「塔」がぴったりだと思いました。舞台は一つの建物で、だんだん階を上がっていくので「WALK UP」というのもそうなんだけど。
多作の監督ですが、でも、毎回見て後悔はしない。先にことわっておくと、ホン・サンス監督作、特にこの作品は私が自信を持って解説できるような作品ではないです。これまでのホン・サンス監督作を見ずにこれだけ見たら、頭の中は?だらけだと思います。そして『WALK UP』を見ずにこれを読んでも分からないと思うので、ぜひ見てから読んでください。
まず私はこのタイトルの「탑」というハングルが、この映画の舞台となる建物を表しているようにも感じました。特に「ㅏ」の外に突き出した部分がベランダ(テラス?)のようで、下のパッチム「ㅂ」は地下室。あまりにもスクリーンいっぱいにこのハングル一文字が出るので、なにか意味があるように感じました。
主人公の映画監督ビョンスを演じるのは、クォン・ヘヒョ。四つの章に分かれていて、最初はビョンスはインテリアを学びたい娘を連れてこの建物を訪れます。建物のオーナー、ヘオク(イ・ヘヨン)がインテリアをやっているようです。次は、ある程度時間が経過して、娘はすでにヘオクのもとでインテリアを学んだけども辞めてしまったという状況。ヘオクとビョンスが飲んでいる席にこの建物の1、2階でレストランを営むソニ(ソン・ソンミ)が同席します。ビョンスとソニは初対面で惹かれ合います。
と思ったら、また時間が経過して、ビョンスとソニは3階で一緒に暮らしている。ここまでは分かった気がしていました。
ところが、次にビョンスの部屋に入って来て恋人のように振舞うのは、また別の女性。ここで、あれあれ??となりました。ベランダがあるので4階だと分かり、話の内容からビョンスはソニと別れたらしいというのが分かります。
ただ時間が経過したというよりは、体調がよくないと言って肉を避けていたビョンスが、依然として体調がよくないと言いながらベランダでお肉を焼いて食べるなど、矛盾もいろいろ見えてきます。
伏線だったと思うのは、最初にヘオクがこの建物を下から順番に案内しながら、3階はカップルが暮らしていると言っていて、4階は狭いけどベランダが付いていると言いながら、ビョンスにそこへ引っ越すよう勧めていたこと。3階でソニと暮らしていたビョンスは、自分は誰かと一緒に暮らせるような人間じゃないというようなことをぼやいていました。
そして最後はこの建物の前にいるビョンス。ここでもあれあれ??となるのは、娘がコンビニでワインを買ってくること。最初にヘオクと飲んでいた時にもコンビニにワインを買いに行っていました。ビョンスが映画会社に呼ばれて席を外していた時にワインを買いに行ったのですが、この最後の親子の会話は映画会社でどんな話をしてきたというもの。じゃあ、また戻ったの?という気もするし、そこはあやふやなまま。
私にはこの建物=탑(塔)とビョンスが重なるようにも感じました。幾重にも重なったビョンス。3階のビョンス、4階のビョンス、どっちが本物?どっちかは夢だった?と考えると、娘とヘオクの会話が思い出されます。
娘はヘオクに、監督として外で見せる父と家の中の父は違う、みんなは本当の父を知らないと言います。これに対してヘオクは外で監督として見せるのも彼の一部であって、家の中の父だけが本当の父ではないと言います。3階のビョンスも、4階のビョンスも、どっちが本物ということもない。
ホン・サンス監督の映画を見ると、いつも自分や周りに置き換えたくなるのですが、私自身、いろんな私がいると思います。つい先日も、大阪でTOPIK(韓国語能力試験)フォーラムに参加した時、昨年何度もオンラインで顔を合わせていた人に初めて直接会い、「全然オンラインの時と違う」と言われました。私自身はオンラインの時は演技しているとか、そういうつもりはまったくないけど、違って見えたらしい。
ホン・サンス監督は、3階までのビョンスを見てそれがビョンスだと信じていた観客に、4階のビョンスを見せて、いかにその人のことを分からずに分かった気になっているかというのを投げかけている気がしました。
ある映画評論家の先生が「偉大な映画監督になるにはどうすればいいか」について語ってくれました。「抽象的な映画を撮って、ノーコメントすればいい」と。そうすると、評論家や観客はいくらでも映画について語れる。一方、監督が一つの答えを提示してしまうと、それ以上に語ることができなくなる。
私に解説を聞きたいと言ってくれたのも、ホン・サンス監督自身が、記者会見やインタビューに答えて自分の作品について語ることがほぼなくなったからで、それがまた映画を豊かにしているという面もありそうです。
2024.4.23
雑記
4月21日、高知で母の一周忌法要を営みました。亡くなったのは昨年の5月21日でしたが、5月は兄と私の予定が合わず、1ヵ月前倒しになりました。母に手を合わせたいと、連絡をくださる方々もいるのですが、一周忌は家族でこぢんまりやりました。お墓の場所がもうすぐ決まりそうなので、連絡いただいている方には、場所が決まったらお伝えしようと思います。いろいろ遅くなってごめんなさい。
高知へ行く前に東京へ寄ったのですが、目的は二つ。一つは、横浜で中学の友達に会うことでした。仲の良かった4人が15年ぶりに集合。というのも、みんな住んでる場所がばらばらなうえに、私以外は子どもがいるので、なかなか予定を合わせて会うというのが難しい。結婚式も誰か一人が欠けて、韓国に2人が来て3人で会ったり、というのはあったけど、4人はほんとに久しぶり。前回は26歳だったのが、41歳になっていて、子どもは合計8人。私が産んでないのに平均2人。
26歳から41歳の間にそれぞれいろんなことがあったけど、会うとやっぱり中学生の時みたいにゲラゲラ笑ってばっかりで、子どもたちの方が圧倒されてました(笑)
もう一つは、毎日新聞からなんと韓国の中央日報に転職された大貫智子さんを囲む会。私は大貫さんとはオンラインでは何度か顔を合わせているんですが、実際に会うのは初めて。私も中央日報で連載しているという縁で呼んでもらったようで、韓国関連の皆さんと東京で晩ご飯をご一緒しました。普段韓国にいるので、東京での食事会に呼んでもらうことはまずないのですが、タイミングがうまくはまりました。
2泊3日の短い東京滞在を経て、高知へ。飛行機が着陸して、スマホの電源を入れたとたん、最高にうれしいメッセージが! まだまだ発表前なので言えないんですが、私が翻訳を担当したシナリオにまつわることで、シナリオを書いた監督からのメッセージでした。監督は私が母の一周忌で日本にいるのを知っていたので「お母さんにありがとうって伝えてください」とのこと。私もほんとにそう思った。お母さん、ありがとう!!
そしてこれもたまたまなんですが、4月21日は甥の誕生日。なので20日夜に誕生日パーティーをして、当日、法要の後に本人ご希望の胴上げをしてあげました。誕生日プレゼント何がいいか聞いたら、「胴上げ」と答えた小学2年生です。
甥の誕生日ケーキ。大好きな恐竜に加えて、去年一緒に行った済州島のトルハルバンのチョコが!
法要の翌日、慌ただしく韓国へ戻ったのは、病院の予約が入っていたため。もっとゆっくりいられるはずだったのが、たぶん医師のストライキの影響で検査結果を聞く予定日が1週間遅れました。昨年3月に甲状腺がんで手術を受けてから、3カ月ごとに検査してきて、数値が悪いと言われた時もあったんですが、今回は「検査結果が良かったので、次は1年後で大丈夫です」とのこと。ホッとしました。
目に見える存在としての母がいないのは本当に寂しいし、1年経っても全然慣れないけど、なんだか一周忌法要前後にハッピーなことがたくさんあって、やっぱりお母さんが見守ってくれてるんやな、と。母の優しい笑顔が浮かんで、温かい気持ちになりました。
2024.3.19
雑記
報告が遅れてしまいましたが、昨年、鶴峰賞言論報道部門で大賞を受賞しました。授賞式は12月、そして受賞記念の講演がつい先日、3月15日でした。それぞれ賞を主催しているソウル大学で行われました。正式にはソウル大学法学専門大学院が主催。
鶴峰賞(학봉상)は、在日韓国人の事業家、故・李基鶴(号・鶴峰)先生の理念を受け継いで創設された賞で、昨年が第8回。言論報道部門の授賞は昨年が3回目だったそうで、日韓関係にまつわる報道が対象です。
私の受賞は、特定の記事というよりも、2022年9月から2023年8月にかけての日韓関係関連記事ということで、主に中央日報の連載だと思います。
中央日報では、朝日新聞を退社して韓国へ留学した2017年から連載を続けていて、2020年にはそれが韓国で『どこにいても、私は私らしく(어디에 있든 나는 나답게)』という本になって出版されました(予定より遅れてますが、日本語版出版に向けて作業中です)。韓国の新聞に日本人が書くので、基本的には日韓にまつわる内容ですが、私の場合は文化を専門にしているので、ちょっと独特の切り口だったかもしれません。賞なんて考えたこともなかったので本当にびっくりしましたが、とっても励みになりました。
先日の講演は「文化を通して見る日韓関係(문화로 짚어보는 한일관계)」というタイトルでお話しました。講演より質疑応答が長かったぐらい、たっぷり時間を取ってもらいましたが、互いに話が尽きない雰囲気で楽しかったです。
推薦してくれた方、大賞に選んでくれた審査員の先生方、そして李基鶴先生と主催者に感謝ですが、何よりいつも記事を読んで応援してくれる読者の方々にお礼を申し上げたいです。ありがとうございます!!
2023.11.11
映画
ここのところ、まったくコラムを更新できていませんでしたが、元気にはやっています。夏ごろから、会社の立ち上げと新たなビザの取得でバタバタしてましたが、やっとこさ、落ち着きました。
会社の名前は「MOMO CULTURE BRIDGE(モモカルチャーブリッジ)」。カルチャーブリッジは私のやっていることからしてすぐ分かると思うのですが、「なんでモモ?」とよく聞かれます。それは後ほど。
実は修士課程を終えた段階で、会社を作って投資ビザを取得しようとしていました。私はそもそもそんなに学問に向いているとは思えず、とはいえせっかく朝日新聞を辞めたのに、またどこかに所属するのも嫌で、フリーランスで活動を続けたかった。でも、フリーランスで取れるビザというのは、ほぼないに等しい。いろいろ調べた結果、投資ビザが一番活動の自由度が高そうだということで、挑戦しました。
順番としては、投資→会社設立→ビザ取得なのですが、修士を終えて投資の準備をしている段階で、コロナが広まってしまいました。いったん日本に帰ったのですが、いっこうに収まる気配がなく、結局、再び韓国に入るために取れるビザは学生ビザくらいということで、博士課程に進むことになりました。
そして博士課程の授業が終わり、論文が通れば卒業という段階で、いったん延期した投資→会社設立→ビザ取得に改めてチャレンジしたのですが、動き始めたのが7月で、結局投資ビザがもらえたのは10月下旬。その間、ほんとに無駄な時間とエネルギーを使い過ぎて、振り返るのも嫌だけど、誰かの役には立つかもしれないのでいずれ振り返りたいと思います。
写真は事務所
「モモ」にはいろんな意味を込めましたが、一つは、母が好きな名前だから。母は私が生まれたばかりのころ、私のことを「もも」と呼んでいたそうです。「もも(漢字があるのかは不明)」という名前にしたかったけど、父の反対(?)で「彩」になったそうです。修士が終わって会社を立ち上げようと考え始めたころ、母にも相談してこの会社名をいったん決めていました。ほんとにこの名前が好きなんだと思ったのは、孫娘(兄の娘)にも「もも」という名前を付けたがっていたそうです。なぜ好きなのかは聞きそびれて、果物の桃が特に好きなわけでもなく、なんとなく発音でしょうか。孫娘の名前も結局「もも」は却下され、生前母に話していた通り、会社名を「モモカルチャーブリッジ」にしました。
そして「母」という漢字は韓国読みで「モ」なので「母母(モモ)」。博士課程が終わったらどうするか、迷っていましたが、母が亡くなったのをきっかけに、一時は母が背中を押してくれた会社作り、もう一度やってみようという気になりました。
「뭐? 뭐?(モ?モ?)」という韓国語の意味も込めました。「なになに?」と好奇心を持って聞く感じの言葉です。
やる内容は、これまでフリーランスでやってきたことと大きくは変わらないのですが、本格的に事業として始めるということです。幸先よく仕事が入ってきて、ドキュメンタリー映画の通訳コーディネートを今月初めに5日間やり、韓国の大物監督たちのインタビューをセッティングして、通訳しました。毎朝6時起きでフラフラにはなりつつ、やりたいことをやっているという充実感。インタビューした一人の映画評論家の事務所には鬼才キム・ギヨン監督の直筆(しかも日本語)で「自分の好きな事を一生懸命する」と書かれた色紙が飾ってありました。41歳、残りの人生、自分の好きな事を一生懸命やります。
HELLO
2023.8.5
雑記
母が亡くなって知ったのは、韓国の人たちはお葬式にはできる限り参列する、ということ。わざわざ韓国から来ようとする友達もいたのですが、とても私の余裕がなく、来ないでとお願いしました。韓国の知人、友人は私の母と直接会ったことがある人はほとんどいないのですが、参列できなかったことを謝ってくる人も多く、日本とだいぶ違うなと思いました。
私の友達のなかでは、唯一、東京から親友のまりちゃんに来てもらいました。中学生の息子と一緒に来たのですが、よく考えると平日だったので、学校を休んで来てくれたようです。お葬式の後のお骨拾いまで一緒にいてくれました。まりちゃんは中学からの親友で、うちにもよく遊びに来て、母ともずっと長い付き合いでした。今年の1月には、まりちゃんが息子と一緒に母の家に泊りに来ました。
まりちゃんはお葬式の後、手紙をくれました。まりちゃんが大変な時には(まりちゃんを大変な状況にした相手のことを)本気で怒ったり、まりちゃんの子育てについて褒めたり、母にかけてもらった印象的な言葉が書いてありました。1月に泊りに来た時には母がまりちゃんに孤独死の話をして、「玄(兄)と彩に迷惑かけたくない。それだけが心配」「ぽっくり死ねたら一番幸せよ!」と言っていたそうです。母の言いそうなことだなと思います。そして、その通りになりました。ぽっくり家で一人で亡くなっていたら孤独死だったのが、ぽっくりヨーガ教室で雑談の最中に亡くなった。教室の皆さんのショックは大きかったと思いますが、病院への搬送にも付き添ってくださり、娘としては母が寂しい最期でなかったのは救いでした。
「お母さんはもう十分幸せだったと思う」というまりちゃんの言葉に癒されました。
母にとってもまりちゃんは特別な存在でした。「家出た日、まりちゃんが真っ先に来てくれた」と何度か私に話していました。父と離婚して家を出た日のことです。引っ越し先に真っ先にまりちゃんが来たのが母はとてもありがたかったようです。心配してくれている、と感じたんだと思います。高知に住んでいる間、ヨーガの関係で母が一人で大阪に行くことがたびたびあり、大阪に行くと、いつもまりちゃんにパンを買って来ました。まりちゃんは大阪のその店のパンが大好きで、「今日、お母さん帰って来る日でね?」と母が帰ってくるのを私以上に心待ちにしていました(笑)
ここ数年は逆にまりちゃんが、お菓子や卵や冷凍のスープを母に送ってくれて、私は韓国にいながら、娘のように一人暮らしの母を気遣ってくれるまりちゃんの存在をとてもありがたく感じていました。
そして、まりちゃん以外にも、私の友達の何人かが、母にかけてもらった言葉を具体的に書いて、メッセージを送ってくれました。それはやっぱり、褒めたり、励ましたり、かばったり、という内容で、それがよっぽど印象的だったようです。私は友達のお母さんにかけてもらった言葉で具体的に覚えている言葉がほとんどないので、母は特別そういう人だったんだと改めて思いました。とってつけたような言葉でなく、母が本気で向き合って言った言葉だったから、みんな心に残ったんだろうと思います。私は娘の特権で、いつもその肯定的な言葉のシャワーを浴びてきました。それが母にもらった最大の財産だと思っています。
お葬式にもヨーガの関係者がお通夜以上にたくさん来てくださり、後で芳名録を見たら、関西だけでなく関東、四国や九州などかなり遠くからも来てくださったようです。
皆さん、母の穏やかな顔を見て、「先生きれいね」「菩薩様みたい」などと口々に言っていました。お棺には、母の両親(私の祖父母)の写真、そして尊敬するヨーガの大師匠、佐保田鶴治先生の本を入れました。母は両親のことを「お父ちゃん、お母ちゃん」と言って、よく思い出して話していました。コロナの間に写真を整理して、アルバム一冊は両親の写真。タイトルは「大好きな父と母」となっていました。
これも後になって気づいて不思議なことの一つですが、今年お正月、高知で神社に初詣に行った時、母は大吉でした。その時は私は内容はよく見ないで「すごいね大吉」と言っていましたが、母が亡くなってから、よく見ると母の家のカレンダーの隣にそのおみくじが貼っていて、おみくじには「わがおもう 港も近くなりにけり ふくや追手のかぜのまにまに」と書いていました。さらに「災自ずから去り福徳集まり 誠に平地を行くが如く追手の風に舟の進むが如く目上の人の助けをうけて喜事があります 信神怠らず心直ぐ行い正しくなさい」とありました。
そういえば、母はよく「お父ちゃん、お母ちゃんは大きな港みたいな存在やった」と話していました。それは自分はそんな大きな存在になれないという意味で言っていたのですが、このおみくじを見て、お母さん、おじいちゃんおばあちゃんという大きな港に帰っていったのかな…と思ったり、このおみくじをカレンダーの横に貼って、母はどんな思いで眺めていたんだろうと思ったり。
私にとっては母は大きな港、という感じではなく、どちらかというと私や兄のことに関して母の方がいつも心配して、私が笑い飛ばすような関係でした。最後に私に送ってくれた母のラインは、私が出張で福岡に着いてから「温度差激しいから、それだけで体はこたえてるから、ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんやで」というメッセージでした。いつも電話の最後に「気いつけや」と言うので、一度、「お母さん、何に気いつけんの?」と聞き返すと「全部や全部!」と怒られたこともあります。私は昔から自分の痛みに鈍感で、無謀に見えることにも果敢に挑戦するほうなので、母はいつも心配していました。
お葬式の後は、兄一家と私夫婦、みんなへとへとで、母とよく行った焼肉屋に行きました。今になって考えるとお葬式の日に焼肉って不謹慎すぎるのでは…と思いますが、その時はとにかくまだ幼い甥姪が「焼肉焼肉!!」と叫んでいるので、迷いなく食べに行きました。子どもたちにとっては長い長い3日間だったと思います。元気すぎる2人は、悲しさを和らげてくれる存在でもありました。
2023.7.17
映画
昨夜(7月16日)は、下北沢の本屋さんB&Bで、作家の角田光代さんとトークイベントでした。5月末発売の拙著『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』(筑摩書房)の刊行記念イベントなのですが、角田さんも韓国ドラマ(実はドラマより前に韓国映画をよく見てらしたそう)ファンで、私の新刊書評が載ったPR誌『ちくま』で角田さんが韓国ドラマにまつわるエッセイの連載をスタートされたというご縁でした。
新刊の献本送り先で、筑摩書房の担当者の井口さんが「角田光代さんにも送りますね」とおっしゃった時は、内心、うれしいけど、まあ、忙しいし読んでもらえないだろうな…と思ってました。そしたら、発売後にB&Bの舟喜さんからトークしませんかというご提案をいただき、それもお相手に角田さんはどうでしょうとおっしゃるので、びっくり。えええ、そんな、あり得ないと思うけど、言ってもらえるだけでもうれしいですという感じでした。そしたら角田さんOKですという連絡が来て、夢のようでした。
実は井口さんはB&Bから連絡が来る前から、B&Bでイベントできたらいいねとおっしゃってました。まずは私が個人的にお付き合いの長いチェッコリからイベントが決まり、その後B&Bの舟喜さんから連絡がありました。井口さんは「出版社からイベントを売り込むことはあっても、B&Bさんから提案がくるなんてすごい」と驚いていて、私もへえっと思ってましたが、後になって分かったのは、舟喜さん自身が韓国ドラマファンでした。やっぱりお店の方がイベントを楽しみにして企画してくれるのは、出演側としてもとってもありがたいです。
昨日トークの前に会った友達から「緊張してる?」と聞かれたけど、「なんか現実感ないから緊張もしない」と答えていたぐらいで、角田さんは実際にお会いしても、すごくナチュラルな感じで、不思議な気分ではありましたが、緊張感ゼロでした。
事前に舟喜さんから「基本的に角田さんの方から質問していただく予定です」と聞いていて、開始1時間前に打ち合わせで初顔合わせだったのですが、角田さんは開口一番「聞きたいことはいっぱいあるけど、今聞いちゃうとおもしろくないしね」と言って、結局本番まで何を質問いただくのか分からないまま、打ち合わせは雑談に花を咲かせました。
角田さんといえば『八日目の蝉』『紙の月』(以外にも代表作挙げるときりがないですが)。個人的にこの2作は小説も映画も大好きで、『紙の月』は今年韓国でドラマ化されました。実は8年も前から韓国で映像化の話が出ていたらしく、その間、キャスティングやスポンサーなどの問題で紆余曲折あってやっと実現したのだそう。あきらめなかったプロデューサーがいたんですね。コロナ禍を経て韓国ドラマファンになった角田さんにはかえっていいタイミングだったのかも。
ほんとにいろいろ質問いただきましたが、冒頭の「日本でネットフリックスなど配信で見ている韓国ドラマは韓国ではテレビでやってるんですか?」という質問、たしかに日本で見ているとそこのとこ分かりにくいんだなと思いました。
「愛の不時着」も「梨泰院クラス」もネットフリックスオリジナルって表示されるから、そう受け止めて当然なんですが、いずれも韓国ではテレビで放送されたドラマ。「イカゲーム」とか「D.P.-脱走兵追跡官-」、「クイーンメーカー」などほんとにネットフリックスオリジナル(ネットフリックスでしか見られない作品)もあるけど、多くは韓国のテレビで放送されたドラマ。これ、日本と韓国の違いで、韓国ではネットフリックスで韓国の放送局のドラマを配信するけど、日本はネットフリックスで日本の放送局のドラマはあまりやってない。だからネットフリックスでやってる韓国ドラマはネットフリックスだけでやってるの?という誤解を生みやすいのかなと思います。
角田さんもそうですが、2020年、コロナ禍で「愛の不時着」「梨泰院クラス」で韓国ドラマを見始めた日本の人が多く、コロナ禍で家にいる時間が増えてネットフリックス視聴者が増えたというのはもちろんあるのですが、今振り返って考えてみると、その時期、おもしろいドラマが立て続けに出てきました。これは私は韓国でリアルタイムでテレビでドラマを見たので実感として覚えているんですが、2019年後半から、パッと思いつくだけでも「椿の花咲く頃」「愛の不時着」「梨泰院クラス」「ハイエナ」「夫婦の世界」「賢い医師生活」「サイコだけど大丈夫」と、1年の間にどんどん出てきました。私はもともと韓国映画ファンで、韓国ドラマはそこまでたくさん見ている方ではなかったのですが、このころはとにかくおもしろいので毎週何時放送というのをチェックして、見たいドラマがある時は大きなテレビのある友達の家に転がりこんで見たりしてました。
そうこうしているうちに日本でも「愛の不時着」がすごい人気というので取材依頼がいっぱいくるようになり、最初は何が起きているのかよく分からないまま、「愛の不時着」の演出、出演者(ヤン・ギョンウォン、キム・ヨンミン)に対面でインタビューしたり、ソン・イェジンはメールの質問に手書きの手紙で答えてくれたりと、一つのドラマでこんなに取材したことないくらい取材して、日本での盛り上がりを実感するようになりました。
私自身、よく聞かれてなかなか答えに困る質問は、好きな俳優で、いっぱいいすぎて誰と答えるか悩むんですが、それでもあえて角田さんに聞いてみました。
その前に、角田さんが俳優の顔と名前がなかなか覚えられないなかで、覚えたのはイ・ビョンホンとオ・ダルスとユ・ヘジンというのもおかしくて、オ・ダルスもユ・ヘジンも基本的には脇役の俳優で(ユ・ヘジンは近年主演も多いですが)、主演俳優30人くらい覚えた後くらいに出てきそうな俳優の名前がイ・ビョンホンの次に出てきたので、やっぱり違うなあ、さすが角田さんと思いました(笑)
私が本にオ・ダルスが#MeTooを経て出演が難しくなったというのを書いていたので、角田さんは初めて知ってショックだったということなのですが、休み時間に個人的にこの話はもう少し詳しく解説しました。
そして好きな俳優ですが、角田さんがまず答えたのは、キム・テリでした。なるほど、私も好きですが、女優なんですねと言って初めて、あと…ウォンビン…と打ち明ける角田さん。
今回のトークで会場が一番わいたところでした。角田さんは映画を見るたびに、あの俳優誰だろうと調べては、ウォンビン…、え、またウォンビン…、最後は『アジョシ』(2010)で、誰あのかっこいい俳優は?と調べたらやっぱりウォンビンで、これだけ何回も調べるのは、好きなんだなと思った、という。ソル・ギョングとかが同じ俳優と気付かないのは、分かるんですよね、毎回全然違うキャラクターなので。ウォンビンは私の目にはいつもウォンビンに見えるので、かなり意外でした。ところで好きな俳優がウォンビンというのはちょっと残念で、もう長らくCMにしか出なくなってしまって、演技しているウォンビンは今後いつかまた見られる機会があるのかしら。
角田さんの素朴な質問のなかで印象に残った一つは、家族写真について。大きな家族写真が飾ってある家がよく出てくるけど、あれはお金持ちだから? 一般家庭でも実際あるの?という質問。あるある。お金持ちでなくても、たいていの家に大きな家族写真があります。
それで思い出して話したのが、チョン・ジェウン監督の映画『子猫をお願い』(2001)で、ペ・ドゥナ演じるテヒが家を出ていく時に、家族写真の自分を切り抜くシーン。あれ、私は気持ちがよく分かる。家族みんな仲良しというポーズが嫌で、私は私と、家族から自立していく姿。家族写真を写真館で撮るのも、それを家に飾るのも、私は抵抗あるなあ。ということを、角田さんの質問を受けて、初めて考えました。
『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』という本を出して、ほんとに良かったなと思うのは、こうやってイベントなどを通して双方向で話が聞けること。本を書く作業自体はとても孤独だったけど、世に出ると、本を通してまたいろんな出会いがあって、私が思ってもみなかったような事実を教えてくれたり、意見をもらったり。久しぶりの再会もあったり。
今年上半期は自分の病気と母の死という大変なことが続き、いろんな意味で余裕のない日々でしたが、本を出したことで新しい世界が広がって、それに救われているような感じがします。
長々書きましたが、最後にキム・ボラ監督の映画『はちどり』(2019)のセリフで、もともと好きなセリフだけど、母が亡くなってたびたび思い出すセリフ。韓国語の響きが好きなので、あえて訳さないで韓国語のまま。
나쁜 일들이 닥치면서도 기쁜 일들이 함께 한다는 것.
우리는 늘 누군가를 만나 무언가를 나눈다는 것.
세상은 참 신기하고 아름답다.
HELLO
2023.6.22
雑記
お通夜当日は本当にバタバタでした。
午前中に葬儀場の担当者とのミーティングを終え、午後はまた曽根崎警察署に行きました。事件性はないという判断で、遺品(亡くなった当日、ヨーガ教室に持って行っていたリュック)を返してもらうためです。ただ、まだ死因が確定できていないため、これからCTを撮るということでした。「遅くとも今日中にはお返しします」と言われ、びっくりしました。母の遺体のことですが、「今日中って、今日の深夜のことですか?」と聞き返すと「それは何とも言えません」。「今日、お通夜なのに、母がいない可能性もあるってことですか?」と聞いても、「すみません、そういう可能性もあります」との回答。頭が真っ白になりながら、母のリュックをしょって、署を出ました。
葬儀場の担当者の話では、亡くなった翌日のお通夜、それも遺体が警察へ行っている場合は「少し慌ただしくなる」とは言っていましたが、まさかお通夜に間に合わないことがあるとは思ってもみませんでした。ほとんどパニックになりながら担当者に電話をかけると、「今日中にの意味は、午後5時までという意味のはずなので大丈夫と思います」とのことでした。それならそう言ってほしかった、警察さん…。
母の遺体の引き取り時間は警察から改めて連絡が来ることになっていたので、落ち着かない気持ちで黒い靴と黒いかばんを買って、母の家に戻りました。私が家に着くとほぼ同時に郵便物が届いて、開けてみたら、母が所属するヨーガの会の会報誌『道友』でした。目次に母の名前を見つけましたが、この時は時間がなくて読まないまま、葬儀が終わってから、お弟子さんの一人から「ぜひ読んでください。みんな感動しています」と言われ、読みました。
「私は皆さんを尊敬します」というタイトルで、会の創設者でもあり、母の大師匠、佐保田鶴治先生のことが書いてありました。
母が35歳の時、佐保田先生が亡くなる前年の指導者研修コースに参加し、佐保田先生が開口一番「私は皆さんを尊敬します」と言った、という話。「私は気が付いたらヨーガの先生になっておったのですが、皆さんは、こうしてお勉強をしてヨーガの先生になろうとしておられるのですから、それはもう尊敬しない訳にはいかない」とおっしゃったそうです。
その後に続く母の文章、少し長いですが、以下、抜粋です。
「さて教師になって33年。いまだに佐保田先生の尊敬に値するような教師ではありませんが、指導の時は、教室のどこかに佐保田先生がおられて、いつも見守ってくださっているような気がしています。
こんな時佐保田先生がいて下さったら……と思うような困難に出会うことがありますが、昨今、世界は未曽有の危機にさらされています。止められない地球温暖化、未知のウィルス遭遇、大国による侵略戦争、国家間の核開発競争、等。全て起こっていることの責任は自分にもあるととらえ、ありのままをよく見て、そこで自分に何ができるか、自分はどうあるべきかを自問するしかないのでしょう。
佐保田先生だったらどうされるだろうか、どうおっしゃるだろうか、とつい考えてしまいます」
と締めくくってありました。皆さんが感動した、というのは、まさに佐保田先生を母に置き換えて読めるからだと思います。教室のどこかで母が見守っているというメッセージです。母はヨーガの教室をいくつも持っていましたが、すべて後継の先生がすんなり決まって翌週から再開したと聞いています。死期を悟っていたとはとても思えませんが、いつ自分がいなくなってもいいような準備はしていたんだと思います。
お通夜の日の話に戻ると、幸い、午後4時引き取りという連絡が来て、お通夜に間に合うことを確認できました。すぐに喪服に着替えて葬儀場に向かいました。
母のヨーガのお弟子さんから「何でもお手伝いするので声をかけてください」と連絡をいただき、ヨーガの関係者がどのくらい来るのか分からないので、念のため受付をお願いしました。私たち(兄一家と私と夫)が葬儀場に着くと、早くもお弟子さんたちがスタンバイしてくれていました。本当に心強く、ありがたかったです。
私はこの日、生まれて初めて「湯灌(ゆかん)」というものを見ました。棺に納める前に故人の体を洗い清めることで、実は言葉すらよく分かっていませんでした。そういえば映画『おくりびと』で見たなとは思いましたが。母の髪を丁寧に洗ってくれるのを見ながら、母と同じ美容院に通っていて、同じ美容師さんに切ってもらっていること、これから私はその美容院に行けるだろうか、母の手帳に書かれていたカットの予約をキャンセルする電話すらかける自信がないなと、そんなことを思っていました。同じ美容師さんなので、一緒に行くことはなく、大抵私が大阪へ戻る時、前もって母が予約を入れてくれていました。
お通夜にはヨーガの関係者だけでも70人以上来てくださったようです。表情を見ただけで、母がいかに慕われていたのか、よく伝わってきました。救急搬送に付き添って母の最期を見届けてくださった生徒さんからは詳しく話をうかがいました。
母は亡くなった当日、NHK文化センター梅田教室で午前午後二つの教室があり、午前の教室をいつも通り終えた後、午後の教室が始まる前に座って生徒さんと雑談をしている最中にスーッと前のめりになって、そのまま息を引き取ってしまったそうです。前日の孫の運動会の話をしていたそうで、いつも走り回っている孫が駆けっこでビリだったと笑いながら、だったので、てっきり生徒さんたちは冗談だと思って、顔を上げておかしなことを言うのを待っていたそうです。そんな死に方、聞いたことないですが、目撃者がたくさんいるので、本当のようです。大好きなヨーガをしながら、大切な生徒さんたちの前で、大好きな孫の話をしながら亡くなったんだと思うと、母らしい気もしてきました。
孫は高知にいるので、運動会の様子は動画で見たものでした。兄夫婦と母と私のグループラインで送られてきたものだったので、私も同じものを見ていました。一生懸命走っていない姿でした。私にとっては甥ですが、小学校1年生で、1月に母と一緒に高知へ行ったのは、この甥が高知大学付属小学校を受験するというので、試験を受ける間、下の子(姪)の面倒を私と母が見るということで行っていました。
実は直前になって受験を決めたのもあり、ひらがなもろくに書けない状態だったのでまさか受からないだろうと思ったら、なぜか受かって、みんなで焼肉でお祝いをしました。母と兄一家と一緒に食べた最後の食事になりましたが、この時撮った写真を見たら、母の楽しそうなこと。人生最高の瞬間だったかもしれません。
母はヨーガ教室でよく孫の話をしていたようで、お通夜でも「岳(たける)くん」とみんなに呼ばれてアイドルのようでした。めちゃくちゃやんちゃで、おばあちゃん(母)は手に負えず、そんな話をよくしていたんだろうと思います。
岳は、母が最後に自分が駆けっこでビリだった話をしていたのを聞いて、「ひろばあちゃん、僕がびりやったから死んだん?」とおかしなことを言っていました。
私は母がこの続きで何を言おうとしていたのか、知っています。「玄(兄)がそうだった」という話です。兄も幼い頃、家ではのびのび元気に走り回るのに、幼稚園に行くとしゅんと縮こまって、運動のできない子になっていたそうです。ところがある日、何がきっかけだったのか、お風呂で「玄ちゃん、明日からがんばる!」と言って、本当に次の日から幼稚園でものびのび運動のできる子になったそうです。それを私は母から耳にたこができるくらい聞いていました。母は昔の息子を思い出しておかしく、笑っていたんだと思います。
岳はまだ1年生なので、死というものをよく分かっていないとは思いますが、葬儀の翌日、高知へ戻る時、「彩ちゃん、死んだらいかんで!」と言ってくれました。