COLUMN

2024.11.2

映画

早過ぎる土田真樹さんとのお別れ

土田真樹さんの訃報を知ったのは、10月29日、金浦から関空行きの飛行機に搭乗してからだった。「えっ!」と一人で声を上げて、スマホの電源を切り、到着まで土田さんのことで頭がいっぱいだった。大阪には昨年5月に亡くなった母の家の片付けに通っていて、それも気が重いのに、実はコロナの間に私が母の家で過ごしていた頃(2020年)、土田さんがわざわざ母の家の近所まで来てくれて、2人で焼肉を食べに行ったこともあった。西田辺の駅に降りると、母の不在と土田さんの思い出が一緒に押し寄せてきた。

当時土田さんは山口の実家で過ごしていて、山口の人は都会の東京や大阪に行くとコロナをとても気にするので、内緒で来たと言っていた。なので私も今まで内緒にしていた。土田さんの実家は洋菓子店(?)を営んでいて、ロールケーキがとってもおいしく、私はいつも「土田ロール」と呼んでいた。この日も土田ロールをおみやげに持ってきてくれた。

土田さんともう会えない悲しみ、近年の土田さんの置かれた状況に対するやるせなさ、怒り、虚無感、いろんなものがふつふつ込み上げて、寝ても覚めても頭から離れない。韓国で韓国映画を専門に取材しているフリーランスのライターというのは、私は私以外に土田さんしか知らず、もっと長く親しく土田さんをよくご存じの方もたくさんいるのは承知で、でも、たぶん「同業者」だから分かち合った苦しみもあったと思う。そのことを中心に書こうと思う。

私が土田さんに最初に会ったのは、定かではないけども、たぶん2014年の釜山国際映画祭だったと思う。私はまだ朝日新聞の記者だった頃で、「さよなら歌舞伎町」の取材だった。韓国の女優イ・ウンウさんが出演していたのもあり、土田さんが関わっていた。韓国映画ファンの私はもちろん土田さんの存在は一方的に知っていて、そのことを伝えると、とてもうれしそうにしてくれて、すぐに親しくなった。

ひと言で言って、とっても優しい方だった。いつもニコニコ、映画祭や試写会の情報を共有してくれたり、知り合いを紹介してくれたり、お世話になりっぱなしだった。私が朝日新聞を辞めて韓国の大学院に留学すると打ち明けた時も「留学準備大変でしょうが、僕ができることがあれば何でもいたしますので、お申し付けください」と、とっても心強いメッセージをくれた。私が他の予定で記者会見に出られない時に代わりに資料をもらってくれたことも何度かあった。コロナ前はかなり頻繁に一緒にご飯に行って、一時は私が「Kリポート」という新しくできたオンライン媒体の編集長を任されて、土田さんに執筆陣に入ってもらったこともあった。2019年だった。かなり安い原稿料だったのに、とってもありがたいと言ってくれた。

今メッセージを見返すと、当初は「原稿料なしにお願いします」とある。土田さんが韓国で所属していた会社と契約を解除した時で、住所を日本に移したタイミングだった。私も同じく当時は留学生としてビザをもらっていたので、突然編集長を頼まれたものの、編集長としての報酬を韓国で受け取ることができず、とっても困った。こういう場合はインボイス作成や手数料など無駄が多いが、日本の口座に振り込むことになる。土田さんは「外国人登録がないとKリポートも面倒くさいのではないかと思われます」と、媒体の方を気遣っていた。もちろん原稿料なしで書いてもらうわけにはいかず、日本の口座へ振り込んだ。

私と土田さんの苦難の時代は、コロナを機に突然訪れた。フリーランスというのは、「ビザ」の問題がとってもやっかいだ。ビザは基本的にどこかに所属する人に出るもので、どんなに韓国映画の記事をがんばって書いたところで、どこかに所属しなければビザはもらえない。ノービザで韓国は3ヶ月滞在できるが、生活者としては、ビザがないと外国人登録ができず、外国人登録がないとあらゆる契約ができない。韓国で韓国の携帯番号や韓国の銀行通帳とクレジットカードなしに暮らすのは非常に不便だ。常に韓国人の誰かに頼らざるを得ず、とても不安定な身分になる。

そういうこともあって、私は昨年自分で韓国に会社を作って、その会社に投資して、投資ビザをもらった。だけども正直、会社を維持するための出費も馬鹿にならず、非常に非効率的なことをやっている自覚はある。こんなこといつまでも続けてられないとも思っている。

そして土田さんは2019年の日本の輸出規制のあおりも受けた。私と違って土田さんは映画のプロデュースもやっていて、日韓合作の企画が止まってしまったと、肩を落としていた。私たちのような日韓で働いている人間には、日本の輸出規制はとっても暴力的に感じられた。

2020年3月、コロナの水際対策でいったん韓国を出るとほぼ再入国ができないような状態になってしまった。私は7月末に留学ビザの期限が切れるまで韓国にいて、日本へいったん帰国した。この時もまだそんなにコロナが長引くとは予想していなかった。ビザがなかった土田さんは先に日本へ戻っていた。日韓両国の外国人に対する配慮のないやり方に、私も土田さんも「酷過ぎる」と不満を打ち明け合った。

困ったのは、賃貸契約をしている家を韓国に残して日本に出てしまったことだ。私も土田さんも韓国に入れない状況で家賃を払い続けた。土田さんはアナログ方式で家賃を払っていたらしく、私がオンラインで土田さんの家賃を韓国へ入金して、土田さんが私の日本の口座に振り込むということを何ヶ月か続けた。二人で「日本の仕事を増やさねば」と話した。土田さんは「韓国にいなくても、携帯電話やその他諸々が毎月引き落とされるので大変です」と嘆いていた。もちろん私も同じだった。しかも携帯電話の料金を払い続けた挙句、6ヶ月で強制解約になって、元の番号が使えなくなった。私は博士課程に入る形で新たなビザをもらい、日本での滞在は7ヶ月だったので、事情を説明したが受け入れられなかった。

2022年1月、土田さんのFacebookの投稿が途絶えていることに気付き、心配になって連絡すると「夏に心筋梗塞をやってしまい、長期入院しておりました。右腕に痺れが残っているため現在はリハビリ中です」と返ってきた。その後コロナが少し落ち着いてきて、土田さんも活動を再開。韓国で土田さんに久々に会った時もお元気そうだったので少し安心した。

2022年9月、土田さんが私に電話をかけたけどつながらないとメッセージが来たので、コロナで日本に帰っている間に強制解約になって番号が変わったことを伝えると、土田さんは 「こちらは部屋を追い出されることになり、来月からは家なしです」と言っていた。土田さんはその後韓国に家のない状態で活動することになった。

私は昨年から自分が手術したり母が急に亡くなったり、会社を設立して投資ビザを取ったり、今年は本格的に博士論文に取り組むことになったり(渦中です)、以前よりも映画祭や試写会に通う頻度が減って、自然と土田さんと会う機会も減っていた。ただ、Facebookで近況は分かり、土田さんは映画祭や試写会を回り続けているようだったので、元気なんだろうと思っていた。最近会った人の話では、かなり辛そうだったという。そして突然知った訃報。1965年生まれで、10月21日に誕生日を迎えたばかりだったので59歳。コロナの苦境がなければ、もっと長生きされたんではと思うと、本当にやりきれない。

私はこんな苦しみを私より若い世代には味わってほしくないと、本気で思っている。韓国文化に興味を持って日本から韓国へ留学に来る若者が増え、うれしい一方で、この若者たちの未来をどうすれば応援できるのか、と考えてしまう。

土田さんはゆうばり映画祭に審査員で行って、そこで亡くなったと聞いた。釜山映画祭の首席プログラマーだったキム・ジソクさんもカンヌ映画祭で亡くなった。映画を愛する人の最期の場が映画祭だった。ヨガの先生だった私の母も、ヨガの教室で亡くなった。ふさわしい場所なのかもしれないけれど、土田さんとの早過ぎるお別れは単に悲しみだけで終わらせたくない気持ちで、この文章を書いた。

土田さん、本当にありがとうございました。お疲れさまでした。

※土田さんの写真は、Kリポート当時、土田さんから提供いただいたものです。

2024.9.9

映画

「日韓×わたしたち」トークセッションに参加しました

 

9月6日、東京都港区の国際文化会館講堂にて、日韓文化交流基金主催トークセッション「日韓×わたしたち」がオフライン、オンラインのハイブリッドで開催されました。

来年2025年 日韓国交正常化60周年のプレ事業として行われ、共に語り合うという参加型のトークセッションは初の試みとなりました。

一橋大学大学院法学研究科准教授のクォン・ヨンソクさん、韓国在住文化系ライター成川彩さんが「これまでの60年、これからの60年」について文化交流を軸に報告し、また日韓の留学生2名がパネリストとして登壇しました。

第一部は、登壇者による報告が行われ、クォン・ヨンソクさんは、「日韓文化交流の歴史と意義」という主題でお話されました。

「この60年は、日韓関係自体が壮大な韓流ドラマのように見え、また今後このドラマがどんなふうに向かっていくのか?というのは若い世代の方々にもかかっている」という導入でのお話に頷きながら、のめり込むように報告を聞きました。

「日韓文化遺産」を選定し、有形・無形の文化遺産として、記憶して記録してまた継承していこう、というお話もありました。ご自身で選定候補として挙げられていたのが、下記のものになります。

  • ・映画「Love Letter」
  • ・サッカーW杯2002
  • ・雪の華 눈의 꽃
  • ・李相花(イ・サンファ)と小平奈緒
  • ・ベイビーブローカー
  • ・3.11募金
  • ・MC Sniperと坂本龍一

 

この「日韓文化遺産」を公募してみるという案も成川さんから出ました。

韓国的なもの、日本的なものに対する自信を持ちながら、好きであるお互いの国ということを認識し、ライバルの関係から互いの文化を守ってくれる、もっと発展できる、一緒にKJコラボができるパートナーとしていかに日韓を認識できるのかということが大切、というお話にとても感銘を受けました。

 

続いて成川彩さんの報告

「韓国における日本文化の需要」という主題でお話されました。

なぜ映画「Love Letter」が韓国でヒットしたのか?

そしてなぜ「今夜、世界からこの恋が消えても」が「Love Letter」に匹敵する観客動員数を記録したのか?

など、映画公開時の韓国の背景についてのお話がとても興味深く面白かったです。

NewJeansのハニが松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌ったり、韓国の番組「韓日歌王戦」で日本のヒット曲がそのまま日本語で歌われたり、現在双方で好感度が高い状況になっているようです。1998年に日本の大衆文化が開放されてからも、日本語での地上波放映は難しい状況が長く続きましたが、「韓日歌王戦」は予想を上回る大反響を呼びました。そんな状況なので、日韓俳優が共演するドラマも立て続けに出てくるようで、坂口健太郎とイ・セヨン共演の「愛のあとにくるもの」が今月末から公開予定。こちらの作品は、日韓国交正常化40周年の時にハンギョレ新聞で連載されていた企画のもので、今回ドラマ化されたそうです。

現地在住だからこその肌感覚でのお話は、とても貴重でリアルでワクワクしながら聞かせてもらいました。

 

パネリストとして登壇された日本人の高麗大学留学生は「異端児だけど大丈夫?」、韓国人の明治大学留学生は「日本と私」というテーマでお話をされました。

 

2部は参加者の質疑応答

たくさんの質問が寄せられ「持続可能な日韓関係をどう構想するのか?」「過去最大級のK、Jカルチャーブームが巻き起こっていますが、政権が変わることによって日韓関係が冷え込むことがないのでしょうか?」など今後の日韓関係に関する質問がいくつか取り上げられました。

その中で成川彩さんが話していた「過去を避けるのではなく、双方で向き合いながら文化交流を続けていくことが、持続可能な関係のためには大事」ということがとても印象的でした。

また若者の間では、日本人、韓国人と線引きをしなくなったと感じていて、日韓線引きした文化ではなく融合したもの、ハイブリット化していくためにはどうすればいいかということを考えていけたら、という留学生のお話も心に残りました。

3時間に渡るトークセッションは、クォン・ヨンソクさんが「日韓関係を捨てよ、文化に触れよ」と呼びかけ、「考えることは大切だけれど、その前にまず文化を知り、みんなが伝道師をやってみたらいいと思います」という言葉で締められました。

 

今回は共に語り合うという参加型のセッションで、たくさん若い方が会場に集まり熱心に話を聞き、積極的に意見を述べる姿がとても印象的で今後の日韓関係にとって、とても明るい材料だと感じました。このようなトークセッションがもっと頻繁に行われ、これが日本と韓国双方で行われ発展していくことを願います。

(文:四角 真理子)

 

2024.8.27

雑記

4月からの新連載「現場発 Kカルチャーの最前線から」

4月から「朝日マリオン.コム」で月1回の連載「現場発 Kカルチャーの最前線から」が始まりました。映画、ドラマ、K-POPなど、韓国現地からKカルチャーにまつわる最新の情報を発信します。これまでの記事のタイトルは以下です。このウェブサイトにも順次アップ(WORKSにて)しているのでお読みいただけるとうれしいです。

4月:K-POP界を席巻する「栗羊羹」
5月:昭和歌謡にトロット、「日韓歌王戦」に釘付け
6月:世界に広まるキンパ きっかけは「ウ・ヨンウ」
7月:韓国の新常識 MBTI診断
8月:関東大震災の虐殺事件を描くドキュメンタリー映画が韓国で公開

記事一覧のリンクはこちら
https://www.asahi-mullion.com/column/article/kculture

2024.7.3

映画

分からなさが魅力? ホン・サンス監督『WALK UP』

先日、知人からホン・サンス監督の『WALK UP』を見たかと聞かれ、見てないと答えたら、解説が聞きたかったのに残念と言われ、さっそく見ました。韓国の原題は탑(塔)です。この映画には「塔」がぴったりだと思いました。舞台は一つの建物で、だんだん階を上がっていくので「WALK UP」というのもそうなんだけど。
多作の監督ですが、でも、毎回見て後悔はしない。先にことわっておくと、ホン・サンス監督作、特にこの作品は私が自信を持って解説できるような作品ではないです。これまでのホン・サンス監督作を見ずにこれだけ見たら、頭の中は?だらけだと思います。そして『WALK UP』を見ずにこれを読んでも分からないと思うので、ぜひ見てから読んでください。

まず私はこのタイトルの「탑」というハングルが、この映画の舞台となる建物を表しているようにも感じました。特に「ㅏ」の外に突き出した部分がベランダ(テラス?)のようで、下のパッチム「ㅂ」は地下室。あまりにもスクリーンいっぱいにこのハングル一文字が出るので、なにか意味があるように感じました。
主人公の映画監督ビョンスを演じるのは、クォン・ヘヒョ。四つの章に分かれていて、最初はビョンスはインテリアを学びたい娘を連れてこの建物を訪れます。建物のオーナー、ヘオク(イ・ヘヨン)がインテリアをやっているようです。次は、ある程度時間が経過して、娘はすでにヘオクのもとでインテリアを学んだけども辞めてしまったという状況。ヘオクとビョンスが飲んでいる席にこの建物の1、2階でレストランを営むソニ(ソン・ソンミ)が同席します。ビョンスとソニは初対面で惹かれ合います。
と思ったら、また時間が経過して、ビョンスとソニは3階で一緒に暮らしている。ここまでは分かった気がしていました。
ところが、次にビョンスの部屋に入って来て恋人のように振舞うのは、また別の女性。ここで、あれあれ??となりました。ベランダがあるので4階だと分かり、話の内容からビョンスはソニと別れたらしいというのが分かります。
ただ時間が経過したというよりは、体調がよくないと言って肉を避けていたビョンスが、依然として体調がよくないと言いながらベランダでお肉を焼いて食べるなど、矛盾もいろいろ見えてきます。
伏線だったと思うのは、最初にヘオクがこの建物を下から順番に案内しながら、3階はカップルが暮らしていると言っていて、4階は狭いけどベランダが付いていると言いながら、ビョンスにそこへ引っ越すよう勧めていたこと。3階でソニと暮らしていたビョンスは、自分は誰かと一緒に暮らせるような人間じゃないというようなことをぼやいていました。
そして最後はこの建物の前にいるビョンス。ここでもあれあれ??となるのは、娘がコンビニでワインを買ってくること。最初にヘオクと飲んでいた時にもコンビニにワインを買いに行っていました。ビョンスが映画会社に呼ばれて席を外していた時にワインを買いに行ったのですが、この最後の親子の会話は映画会社でどんな話をしてきたというもの。じゃあ、また戻ったの?という気もするし、そこはあやふやなまま。
私にはこの建物=탑(塔)とビョンスが重なるようにも感じました。幾重にも重なったビョンス。3階のビョンス、4階のビョンス、どっちが本物?どっちかは夢だった?と考えると、娘とヘオクの会話が思い出されます。
娘はヘオクに、監督として外で見せる父と家の中の父は違う、みんなは本当の父を知らないと言います。これに対してヘオクは外で監督として見せるのも彼の一部であって、家の中の父だけが本当の父ではないと言います。3階のビョンスも、4階のビョンスも、どっちが本物ということもない。
ホン・サンス監督の映画を見ると、いつも自分や周りに置き換えたくなるのですが、私自身、いろんな私がいると思います。つい先日も、大阪でTOPIK(韓国語能力試験)フォーラムに参加した時、昨年何度もオンラインで顔を合わせていた人に初めて直接会い、「全然オンラインの時と違う」と言われました。私自身はオンラインの時は演技しているとか、そういうつもりはまったくないけど、違って見えたらしい。
ホン・サンス監督は、3階までのビョンスを見てそれがビョンスだと信じていた観客に、4階のビョンスを見せて、いかにその人のことを分からずに分かった気になっているかというのを投げかけている気がしました。
ある映画評論家の先生が「偉大な映画監督になるにはどうすればいいか」について語ってくれました。「抽象的な映画を撮って、ノーコメントすればいい」と。そうすると、評論家や観客はいくらでも映画について語れる。一方、監督が一つの答えを提示してしまうと、それ以上に語ることができなくなる。
私に解説を聞きたいと言ってくれたのも、ホン・サンス監督自身が、記者会見やインタビューに答えて自分の作品について語ることがほぼなくなったからで、それがまた映画を豊かにしているという面もありそうです。

2024.4.23

雑記

母、成川弘子さんのこと⑥

4月21日、高知で母の一周忌法要を営みました。亡くなったのは昨年の5月21日でしたが、5月は兄と私の予定が合わず、1ヵ月前倒しになりました。母に手を合わせたいと、連絡をくださる方々もいるのですが、一周忌は家族でこぢんまりやりました。お墓の場所がもうすぐ決まりそうなので、連絡いただいている方には、場所が決まったらお伝えしようと思います。いろいろ遅くなってごめんなさい。
高知へ行く前に東京へ寄ったのですが、目的は二つ。一つは、横浜で中学の友達に会うことでした。仲の良かった4人が15年ぶりに集合。というのも、みんな住んでる場所がばらばらなうえに、私以外は子どもがいるので、なかなか予定を合わせて会うというのが難しい。結婚式も誰か一人が欠けて、韓国に2人が来て3人で会ったり、というのはあったけど、4人はほんとに久しぶり。前回は26歳だったのが、41歳になっていて、子どもは合計8人。私が産んでないのに平均2人。
26歳から41歳の間にそれぞれいろんなことがあったけど、会うとやっぱり中学生の時みたいにゲラゲラ笑ってばっかりで、子どもたちの方が圧倒されてました(笑)
もう一つは、毎日新聞からなんと韓国の中央日報に転職された大貫智子さんを囲む会。私は大貫さんとはオンラインでは何度か顔を合わせているんですが、実際に会うのは初めて。私も中央日報で連載しているという縁で呼んでもらったようで、韓国関連の皆さんと東京で晩ご飯をご一緒しました。普段韓国にいるので、東京での食事会に呼んでもらうことはまずないのですが、タイミングがうまくはまりました。
2泊3日の短い東京滞在を経て、高知へ。飛行機が着陸して、スマホの電源を入れたとたん、最高にうれしいメッセージが! まだまだ発表前なので言えないんですが、私が翻訳を担当したシナリオにまつわることで、シナリオを書いた監督からのメッセージでした。監督は私が母の一周忌で日本にいるのを知っていたので「お母さんにありがとうって伝えてください」とのこと。私もほんとにそう思った。お母さん、ありがとう!!
そしてこれもたまたまなんですが、4月21日は甥の誕生日。なので20日夜に誕生日パーティーをして、当日、法要の後に本人ご希望の胴上げをしてあげました。誕生日プレゼント何がいいか聞いたら、「胴上げ」と答えた小学2年生です。


甥の誕生日ケーキ。大好きな恐竜に加えて、去年一緒に行った済州島のトルハルバンのチョコが!

法要の翌日、慌ただしく韓国へ戻ったのは、病院の予約が入っていたため。もっとゆっくりいられるはずだったのが、たぶん医師のストライキの影響で検査結果を聞く予定日が1週間遅れました。昨年3月に甲状腺がんで手術を受けてから、3カ月ごとに検査してきて、数値が悪いと言われた時もあったんですが、今回は「検査結果が良かったので、次は1年後で大丈夫です」とのこと。ホッとしました。
目に見える存在としての母がいないのは本当に寂しいし、1年経っても全然慣れないけど、なんだか一周忌法要前後にハッピーなことがたくさんあって、やっぱりお母さんが見守ってくれてるんやな、と。母の優しい笑顔が浮かんで、温かい気持ちになりました。

2024.3.19

雑記

鶴峰賞言論報道部門で大賞受賞!

報告が遅れてしまいましたが、昨年、鶴峰賞言論報道部門で大賞を受賞しました。授賞式は12月、そして受賞記念の講演がつい先日、3月15日でした。それぞれ賞を主催しているソウル大学で行われました。正式にはソウル大学法学専門大学院が主催。

鶴峰賞(학봉상)は、在日韓国人の事業家、故・李基鶴(号・鶴峰)先生の理念を受け継いで創設された賞で、昨年が第8回。言論報道部門の授賞は昨年が3回目だったそうで、日韓関係にまつわる報道が対象です。
私の受賞は、特定の記事というよりも、2022年9月から2023年8月にかけての日韓関係関連記事ということで、主に中央日報の連載だと思います。
中央日報では、朝日新聞を退社して韓国へ留学した2017年から連載を続けていて、2020年にはそれが韓国で『どこにいても、私は私らしく(어디에 있든 나는 나답게)』という本になって出版されました(予定より遅れてますが、日本語版出版に向けて作業中です)。韓国の新聞に日本人が書くので、基本的には日韓にまつわる内容ですが、私の場合は文化を専門にしているので、ちょっと独特の切り口だったかもしれません。賞なんて考えたこともなかったので本当にびっくりしましたが、とっても励みになりました。
先日の講演は「文化を通して見る日韓関係(문화로 짚어보는 한일관계)」というタイトルでお話しました。講演より質疑応答が長かったぐらい、たっぷり時間を取ってもらいましたが、互いに話が尽きない雰囲気で楽しかったです。

推薦してくれた方、大賞に選んでくれた審査員の先生方、そして李基鶴先生と主催者に感謝ですが、何よりいつも記事を読んで応援してくれる読者の方々にお礼を申し上げたいです。ありがとうございます!!