COLUMN

2024.3.19

雑記

鶴峰賞言論報道部門で大賞受賞!

報告が遅れてしまいましたが、昨年、鶴峰賞言論報道部門で大賞を受賞しました。授賞式は12月、そして受賞記念の講演がつい先日、3月15日でした。それぞれ賞を主催しているソウル大学で行われました。正式にはソウル大学法学専門大学院が主催。

鶴峰賞(학봉상)は、在日韓国人の事業家、故・李基鶴(号・鶴峰)先生の理念を受け継いで創設された賞で、昨年が第8回。言論報道部門の授賞は昨年が3回目だったそうで、日韓関係にまつわる報道が対象です。
私の受賞は、特定の記事というよりも、2022年9月から2023年8月にかけての日韓関係関連記事ということで、主に中央日報の連載だと思います。
中央日報では、朝日新聞を退社して韓国へ留学した2017年から連載を続けていて、2020年にはそれが韓国で『どこにいても、私は私らしく(어디에 있든 나는 나답게)』という本になって出版されました(予定より遅れてますが、日本語版出版に向けて作業中です)。韓国の新聞に日本人が書くので、基本的には日韓にまつわる内容ですが、私の場合は文化を専門にしているので、ちょっと独特の切り口だったかもしれません。賞なんて考えたこともなかったので本当にびっくりしましたが、とっても励みになりました。
先日の講演は「文化を通して見る日韓関係(문화로 짚어보는 한일관계)」というタイトルでお話しました。講演より質疑応答が長かったぐらい、たっぷり時間を取ってもらいましたが、互いに話が尽きない雰囲気で楽しかったです。

推薦してくれた方、大賞に選んでくれた審査員の先生方、そして李基鶴先生と主催者に感謝ですが、何よりいつも記事を読んで応援してくれる読者の方々にお礼を申し上げたいです。ありがとうございます!!

2023.11.11

映画

韓国で会社を作りました

ここのところ、まったくコラムを更新できていませんでしたが、元気にはやっています。夏ごろから、会社の立ち上げと新たなビザの取得でバタバタしてましたが、やっとこさ、落ち着きました。
会社の名前は「MOMO CULTURE BRIDGE(モモカルチャーブリッジ)」。カルチャーブリッジは私のやっていることからしてすぐ分かると思うのですが、「なんでモモ?」とよく聞かれます。それは後ほど。

実は修士課程を終えた段階で、会社を作って投資ビザを取得しようとしていました。私はそもそもそんなに学問に向いているとは思えず、とはいえせっかく朝日新聞を辞めたのに、またどこかに所属するのも嫌で、フリーランスで活動を続けたかった。でも、フリーランスで取れるビザというのは、ほぼないに等しい。いろいろ調べた結果、投資ビザが一番活動の自由度が高そうだということで、挑戦しました。
順番としては、投資→会社設立→ビザ取得なのですが、修士を終えて投資の準備をしている段階で、コロナが広まってしまいました。いったん日本に帰ったのですが、いっこうに収まる気配がなく、結局、再び韓国に入るために取れるビザは学生ビザくらいということで、博士課程に進むことになりました。
そして博士課程の授業が終わり、論文が通れば卒業という段階で、いったん延期した投資→会社設立→ビザ取得に改めてチャレンジしたのですが、動き始めたのが7月で、結局投資ビザがもらえたのは10月下旬。その間、ほんとに無駄な時間とエネルギーを使い過ぎて、振り返るのも嫌だけど、誰かの役には立つかもしれないのでいずれ振り返りたいと思います。

写真は事務所

「モモ」にはいろんな意味を込めましたが、一つは、母が好きな名前だから。母は私が生まれたばかりのころ、私のことを「もも」と呼んでいたそうです。「もも(漢字があるのかは不明)」という名前にしたかったけど、父の反対(?)で「彩」になったそうです。修士が終わって会社を立ち上げようと考え始めたころ、母にも相談してこの会社名をいったん決めていました。ほんとにこの名前が好きなんだと思ったのは、孫娘(兄の娘)にも「もも」という名前を付けたがっていたそうです。なぜ好きなのかは聞きそびれて、果物の桃が特に好きなわけでもなく、なんとなく発音でしょうか。孫娘の名前も結局「もも」は却下され、生前母に話していた通り、会社名を「モモカルチャーブリッジ」にしました。
そして「母」という漢字は韓国読みで「モ」なので「母母(モモ)」。博士課程が終わったらどうするか、迷っていましたが、母が亡くなったのをきっかけに、一時は母が背中を押してくれた会社作り、もう一度やってみようという気になりました。
「뭐? 뭐?(モ?モ?)」という韓国語の意味も込めました。「なになに?」と好奇心を持って聞く感じの言葉です。
やる内容は、これまでフリーランスでやってきたことと大きくは変わらないのですが、本格的に事業として始めるということです。幸先よく仕事が入ってきて、ドキュメンタリー映画の通訳コーディネートを今月初めに5日間やり、韓国の大物監督たちのインタビューをセッティングして、通訳しました。毎朝6時起きでフラフラにはなりつつ、やりたいことをやっているという充実感。インタビューした一人の映画評論家の事務所には鬼才キム・ギヨン監督の直筆(しかも日本語)で「自分の好きな事を一生懸命する」と書かれた色紙が飾ってありました。41歳、残りの人生、自分の好きな事を一生懸命やります。

HELLO

2023.8.5

雑記

母、成川弘子さんのこと⑤

母が亡くなって知ったのは、韓国の人たちはお葬式にはできる限り参列する、ということ。わざわざ韓国から来ようとする友達もいたのですが、とても私の余裕がなく、来ないでとお願いしました。韓国の知人、友人は私の母と直接会ったことがある人はほとんどいないのですが、参列できなかったことを謝ってくる人も多く、日本とだいぶ違うなと思いました。
私の友達のなかでは、唯一、東京から親友のまりちゃんに来てもらいました。中学生の息子と一緒に来たのですが、よく考えると平日だったので、学校を休んで来てくれたようです。お葬式の後のお骨拾いまで一緒にいてくれました。まりちゃんは中学からの親友で、うちにもよく遊びに来て、母ともずっと長い付き合いでした。今年の1月には、まりちゃんが息子と一緒に母の家に泊りに来ました。
まりちゃんはお葬式の後、手紙をくれました。まりちゃんが大変な時には(まりちゃんを大変な状況にした相手のことを)本気で怒ったり、まりちゃんの子育てについて褒めたり、母にかけてもらった印象的な言葉が書いてありました。1月に泊りに来た時には母がまりちゃんに孤独死の話をして、「玄(兄)と彩に迷惑かけたくない。それだけが心配」「ぽっくり死ねたら一番幸せよ!」と言っていたそうです。母の言いそうなことだなと思います。そして、その通りになりました。ぽっくり家で一人で亡くなっていたら孤独死だったのが、ぽっくりヨーガ教室で雑談の最中に亡くなった。教室の皆さんのショックは大きかったと思いますが、病院への搬送にも付き添ってくださり、娘としては母が寂しい最期でなかったのは救いでした。
「お母さんはもう十分幸せだったと思う」というまりちゃんの言葉に癒されました。
母にとってもまりちゃんは特別な存在でした。「家出た日、まりちゃんが真っ先に来てくれた」と何度か私に話していました。父と離婚して家を出た日のことです。引っ越し先に真っ先にまりちゃんが来たのが母はとてもありがたかったようです。心配してくれている、と感じたんだと思います。高知に住んでいる間、ヨーガの関係で母が一人で大阪に行くことがたびたびあり、大阪に行くと、いつもまりちゃんにパンを買って来ました。まりちゃんは大阪のその店のパンが大好きで、「今日、お母さん帰って来る日でね?」と母が帰ってくるのを私以上に心待ちにしていました(笑)
ここ数年は逆にまりちゃんが、お菓子や卵や冷凍のスープを母に送ってくれて、私は韓国にいながら、娘のように一人暮らしの母を気遣ってくれるまりちゃんの存在をとてもありがたく感じていました。
そして、まりちゃん以外にも、私の友達の何人かが、母にかけてもらった言葉を具体的に書いて、メッセージを送ってくれました。それはやっぱり、褒めたり、励ましたり、かばったり、という内容で、それがよっぽど印象的だったようです。私は友達のお母さんにかけてもらった言葉で具体的に覚えている言葉がほとんどないので、母は特別そういう人だったんだと改めて思いました。とってつけたような言葉でなく、母が本気で向き合って言った言葉だったから、みんな心に残ったんだろうと思います。私は娘の特権で、いつもその肯定的な言葉のシャワーを浴びてきました。それが母にもらった最大の財産だと思っています。
お葬式にもヨーガの関係者がお通夜以上にたくさん来てくださり、後で芳名録を見たら、関西だけでなく関東、四国や九州などかなり遠くからも来てくださったようです。
皆さん、母の穏やかな顔を見て、「先生きれいね」「菩薩様みたい」などと口々に言っていました。お棺には、母の両親(私の祖父母)の写真、そして尊敬するヨーガの大師匠、佐保田鶴治先生の本を入れました。母は両親のことを「お父ちゃん、お母ちゃん」と言って、よく思い出して話していました。コロナの間に写真を整理して、アルバム一冊は両親の写真。タイトルは「大好きな父と母」となっていました。
これも後になって気づいて不思議なことの一つですが、今年お正月、高知で神社に初詣に行った時、母は大吉でした。その時は私は内容はよく見ないで「すごいね大吉」と言っていましたが、母が亡くなってから、よく見ると母の家のカレンダーの隣にそのおみくじが貼っていて、おみくじには「わがおもう 港も近くなりにけり ふくや追手のかぜのまにまに」と書いていました。さらに「災自ずから去り福徳集まり 誠に平地を行くが如く追手の風に舟の進むが如く目上の人の助けをうけて喜事があります 信神怠らず心直ぐ行い正しくなさい」とありました。
そういえば、母はよく「お父ちゃん、お母ちゃんは大きな港みたいな存在やった」と話していました。それは自分はそんな大きな存在になれないという意味で言っていたのですが、このおみくじを見て、お母さん、おじいちゃんおばあちゃんという大きな港に帰っていったのかな…と思ったり、このおみくじをカレンダーの横に貼って、母はどんな思いで眺めていたんだろうと思ったり。
私にとっては母は大きな港、という感じではなく、どちらかというと私や兄のことに関して母の方がいつも心配して、私が笑い飛ばすような関係でした。最後に私に送ってくれた母のラインは、私が出張で福岡に着いてから「温度差激しいから、それだけで体はこたえてるから、ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんやで」というメッセージでした。いつも電話の最後に「気いつけや」と言うので、一度、「お母さん、何に気いつけんの?」と聞き返すと「全部や全部!」と怒られたこともあります。私は昔から自分の痛みに鈍感で、無謀に見えることにも果敢に挑戦するほうなので、母はいつも心配していました。
お葬式の後は、兄一家と私夫婦、みんなへとへとで、母とよく行った焼肉屋に行きました。今になって考えるとお葬式の日に焼肉って不謹慎すぎるのでは…と思いますが、その時はとにかくまだ幼い甥姪が「焼肉焼肉!!」と叫んでいるので、迷いなく食べに行きました。子どもたちにとっては長い長い3日間だったと思います。元気すぎる2人は、悲しさを和らげてくれる存在でもありました。

2023.7.17

映画

角田光代さんと韓国映画・ドラマのトーク!

昨夜(7月16日)は、下北沢の本屋さんB&Bで、作家の角田光代さんとトークイベントでした。5月末発売の拙著『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』(筑摩書房)の刊行記念イベントなのですが、角田さんも韓国ドラマ(実はドラマより前に韓国映画をよく見てらしたそう)ファンで、私の新刊書評が載ったPR誌『ちくま』で角田さんが韓国ドラマにまつわるエッセイの連載をスタートされたというご縁でした。
新刊の献本送り先で、筑摩書房の担当者の井口さんが「角田光代さんにも送りますね」とおっしゃった時は、内心、うれしいけど、まあ、忙しいし読んでもらえないだろうな…と思ってました。そしたら、発売後にB&Bの舟喜さんからトークしませんかというご提案をいただき、それもお相手に角田さんはどうでしょうとおっしゃるので、びっくり。えええ、そんな、あり得ないと思うけど、言ってもらえるだけでもうれしいですという感じでした。そしたら角田さんOKですという連絡が来て、夢のようでした。
実は井口さんはB&Bから連絡が来る前から、B&Bでイベントできたらいいねとおっしゃってました。まずは私が個人的にお付き合いの長いチェッコリからイベントが決まり、その後B&Bの舟喜さんから連絡がありました。井口さんは「出版社からイベントを売り込むことはあっても、B&Bさんから提案がくるなんてすごい」と驚いていて、私もへえっと思ってましたが、後になって分かったのは、舟喜さん自身が韓国ドラマファンでした。やっぱりお店の方がイベントを楽しみにして企画してくれるのは、出演側としてもとってもありがたいです。
昨日トークの前に会った友達から「緊張してる?」と聞かれたけど、「なんか現実感ないから緊張もしない」と答えていたぐらいで、角田さんは実際にお会いしても、すごくナチュラルな感じで、不思議な気分ではありましたが、緊張感ゼロでした。

事前に舟喜さんから「基本的に角田さんの方から質問していただく予定です」と聞いていて、開始1時間前に打ち合わせで初顔合わせだったのですが、角田さんは開口一番「聞きたいことはいっぱいあるけど、今聞いちゃうとおもしろくないしね」と言って、結局本番まで何を質問いただくのか分からないまま、打ち合わせは雑談に花を咲かせました。
角田さんといえば『八日目の蝉』『紙の月』(以外にも代表作挙げるときりがないですが)。個人的にこの2作は小説も映画も大好きで、『紙の月』は今年韓国でドラマ化されました。実は8年も前から韓国で映像化の話が出ていたらしく、その間、キャスティングやスポンサーなどの問題で紆余曲折あってやっと実現したのだそう。あきらめなかったプロデューサーがいたんですね。コロナ禍を経て韓国ドラマファンになった角田さんにはかえっていいタイミングだったのかも。
ほんとにいろいろ質問いただきましたが、冒頭の「日本でネットフリックスなど配信で見ている韓国ドラマは韓国ではテレビでやってるんですか?」という質問、たしかに日本で見ているとそこのとこ分かりにくいんだなと思いました。
「愛の不時着」も「梨泰院クラス」もネットフリックスオリジナルって表示されるから、そう受け止めて当然なんですが、いずれも韓国ではテレビで放送されたドラマ。「イカゲーム」とか「D.P.-脱走兵追跡官-」、「クイーンメーカー」などほんとにネットフリックスオリジナル(ネットフリックスでしか見られない作品)もあるけど、多くは韓国のテレビで放送されたドラマ。これ、日本と韓国の違いで、韓国ではネットフリックスで韓国の放送局のドラマを配信するけど、日本はネットフリックスで日本の放送局のドラマはあまりやってない。だからネットフリックスでやってる韓国ドラマはネットフリックスだけでやってるの?という誤解を生みやすいのかなと思います。

角田さんもそうですが、2020年、コロナ禍で「愛の不時着」「梨泰院クラス」で韓国ドラマを見始めた日本の人が多く、コロナ禍で家にいる時間が増えてネットフリックス視聴者が増えたというのはもちろんあるのですが、今振り返って考えてみると、その時期、おもしろいドラマが立て続けに出てきました。これは私は韓国でリアルタイムでテレビでドラマを見たので実感として覚えているんですが、2019年後半から、パッと思いつくだけでも「椿の花咲く頃」「愛の不時着」「梨泰院クラス」「ハイエナ」「夫婦の世界」「賢い医師生活」「サイコだけど大丈夫」と、1年の間にどんどん出てきました。私はもともと韓国映画ファンで、韓国ドラマはそこまでたくさん見ている方ではなかったのですが、このころはとにかくおもしろいので毎週何時放送というのをチェックして、見たいドラマがある時は大きなテレビのある友達の家に転がりこんで見たりしてました。
そうこうしているうちに日本でも「愛の不時着」がすごい人気というので取材依頼がいっぱいくるようになり、最初は何が起きているのかよく分からないまま、「愛の不時着」の演出、出演者(ヤン・ギョンウォン、キム・ヨンミン)に対面でインタビューしたり、ソン・イェジンはメールの質問に手書きの手紙で答えてくれたりと、一つのドラマでこんなに取材したことないくらい取材して、日本での盛り上がりを実感するようになりました。
私自身、よく聞かれてなかなか答えに困る質問は、好きな俳優で、いっぱいいすぎて誰と答えるか悩むんですが、それでもあえて角田さんに聞いてみました。
その前に、角田さんが俳優の顔と名前がなかなか覚えられないなかで、覚えたのはイ・ビョンホンとオ・ダルスとユ・ヘジンというのもおかしくて、オ・ダルスもユ・ヘジンも基本的には脇役の俳優で(ユ・ヘジンは近年主演も多いですが)、主演俳優30人くらい覚えた後くらいに出てきそうな俳優の名前がイ・ビョンホンの次に出てきたので、やっぱり違うなあ、さすが角田さんと思いました(笑)
私が本にオ・ダルスが#MeTooを経て出演が難しくなったというのを書いていたので、角田さんは初めて知ってショックだったということなのですが、休み時間に個人的にこの話はもう少し詳しく解説しました。

そして好きな俳優ですが、角田さんがまず答えたのは、キム・テリでした。なるほど、私も好きですが、女優なんですねと言って初めて、あと…ウォンビン…と打ち明ける角田さん。
今回のトークで会場が一番わいたところでした。角田さんは映画を見るたびに、あの俳優誰だろうと調べては、ウォンビン…、え、またウォンビン…、最後は『アジョシ』(2010)で、誰あのかっこいい俳優は?と調べたらやっぱりウォンビンで、これだけ何回も調べるのは、好きなんだなと思った、という。ソル・ギョングとかが同じ俳優と気付かないのは、分かるんですよね、毎回全然違うキャラクターなので。ウォンビンは私の目にはいつもウォンビンに見えるので、かなり意外でした。ところで好きな俳優がウォンビンというのはちょっと残念で、もう長らくCMにしか出なくなってしまって、演技しているウォンビンは今後いつかまた見られる機会があるのかしら。
角田さんの素朴な質問のなかで印象に残った一つは、家族写真について。大きな家族写真が飾ってある家がよく出てくるけど、あれはお金持ちだから? 一般家庭でも実際あるの?という質問。あるある。お金持ちでなくても、たいていの家に大きな家族写真があります。
それで思い出して話したのが、チョン・ジェウン監督の映画『子猫をお願い』(2001)で、ペ・ドゥナ演じるテヒが家を出ていく時に、家族写真の自分を切り抜くシーン。あれ、私は気持ちがよく分かる。家族みんな仲良しというポーズが嫌で、私は私と、家族から自立していく姿。家族写真を写真館で撮るのも、それを家に飾るのも、私は抵抗あるなあ。ということを、角田さんの質問を受けて、初めて考えました。
『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』という本を出して、ほんとに良かったなと思うのは、こうやってイベントなどを通して双方向で話が聞けること。本を書く作業自体はとても孤独だったけど、世に出ると、本を通してまたいろんな出会いがあって、私が思ってもみなかったような事実を教えてくれたり、意見をもらったり。久しぶりの再会もあったり。
今年上半期は自分の病気と母の死という大変なことが続き、いろんな意味で余裕のない日々でしたが、本を出したことで新しい世界が広がって、それに救われているような感じがします。
長々書きましたが、最後にキム・ボラ監督の映画『はちどり』(2019)のセリフで、もともと好きなセリフだけど、母が亡くなってたびたび思い出すセリフ。韓国語の響きが好きなので、あえて訳さないで韓国語のまま。

나쁜 일들이 닥치면서도 기쁜 일들이 함께 한다는 것.
우리는 늘 누군가를 만나 무언가를 나눈다는 것.
세상은 참 신기하고 아름답다.

HELLO

2023.6.22

雑記

母、成川弘子さんのこと④

お通夜当日は本当にバタバタでした。
午前中に葬儀場の担当者とのミーティングを終え、午後はまた曽根崎警察署に行きました。事件性はないという判断で、遺品(亡くなった当日、ヨーガ教室に持って行っていたリュック)を返してもらうためです。ただ、まだ死因が確定できていないため、これからCTを撮るということでした。「遅くとも今日中にはお返しします」と言われ、びっくりしました。母の遺体のことですが、「今日中って、今日の深夜のことですか?」と聞き返すと「それは何とも言えません」。「今日、お通夜なのに、母がいない可能性もあるってことですか?」と聞いても、「すみません、そういう可能性もあります」との回答。頭が真っ白になりながら、母のリュックをしょって、署を出ました。
葬儀場の担当者の話では、亡くなった翌日のお通夜、それも遺体が警察へ行っている場合は「少し慌ただしくなる」とは言っていましたが、まさかお通夜に間に合わないことがあるとは思ってもみませんでした。ほとんどパニックになりながら担当者に電話をかけると、「今日中にの意味は、午後5時までという意味のはずなので大丈夫と思います」とのことでした。それならそう言ってほしかった、警察さん…。
母の遺体の引き取り時間は警察から改めて連絡が来ることになっていたので、落ち着かない気持ちで黒い靴と黒いかばんを買って、母の家に戻りました。私が家に着くとほぼ同時に郵便物が届いて、開けてみたら、母が所属するヨーガの会の会報誌『道友』でした。目次に母の名前を見つけましたが、この時は時間がなくて読まないまま、葬儀が終わってから、お弟子さんの一人から「ぜひ読んでください。みんな感動しています」と言われ、読みました。
「私は皆さんを尊敬します」というタイトルで、会の創設者でもあり、母の大師匠、佐保田鶴治先生のことが書いてありました。
母が35歳の時、佐保田先生が亡くなる前年の指導者研修コースに参加し、佐保田先生が開口一番「私は皆さんを尊敬します」と言った、という話。「私は気が付いたらヨーガの先生になっておったのですが、皆さんは、こうしてお勉強をしてヨーガの先生になろうとしておられるのですから、それはもう尊敬しない訳にはいかない」とおっしゃったそうです。
その後に続く母の文章、少し長いですが、以下、抜粋です。
「さて教師になって33年。いまだに佐保田先生の尊敬に値するような教師ではありませんが、指導の時は、教室のどこかに佐保田先生がおられて、いつも見守ってくださっているような気がしています。
こんな時佐保田先生がいて下さったら……と思うような困難に出会うことがありますが、昨今、世界は未曽有の危機にさらされています。止められない地球温暖化、未知のウィルス遭遇、大国による侵略戦争、国家間の核開発競争、等。全て起こっていることの責任は自分にもあるととらえ、ありのままをよく見て、そこで自分に何ができるか、自分はどうあるべきかを自問するしかないのでしょう。
佐保田先生だったらどうされるだろうか、どうおっしゃるだろうか、とつい考えてしまいます」
と締めくくってありました。皆さんが感動した、というのは、まさに佐保田先生を母に置き換えて読めるからだと思います。教室のどこかで母が見守っているというメッセージです。母はヨーガの教室をいくつも持っていましたが、すべて後継の先生がすんなり決まって翌週から再開したと聞いています。死期を悟っていたとはとても思えませんが、いつ自分がいなくなってもいいような準備はしていたんだと思います。
お通夜の日の話に戻ると、幸い、午後4時引き取りという連絡が来て、お通夜に間に合うことを確認できました。すぐに喪服に着替えて葬儀場に向かいました。
母のヨーガのお弟子さんから「何でもお手伝いするので声をかけてください」と連絡をいただき、ヨーガの関係者がどのくらい来るのか分からないので、念のため受付をお願いしました。私たち(兄一家と私と夫)が葬儀場に着くと、早くもお弟子さんたちがスタンバイしてくれていました。本当に心強く、ありがたかったです。
私はこの日、生まれて初めて「湯灌(ゆかん)」というものを見ました。棺に納める前に故人の体を洗い清めることで、実は言葉すらよく分かっていませんでした。そういえば映画『おくりびと』で見たなとは思いましたが。母の髪を丁寧に洗ってくれるのを見ながら、母と同じ美容院に通っていて、同じ美容師さんに切ってもらっていること、これから私はその美容院に行けるだろうか、母の手帳に書かれていたカットの予約をキャンセルする電話すらかける自信がないなと、そんなことを思っていました。同じ美容師さんなので、一緒に行くことはなく、大抵私が大阪へ戻る時、前もって母が予約を入れてくれていました。
お通夜にはヨーガの関係者だけでも70人以上来てくださったようです。表情を見ただけで、母がいかに慕われていたのか、よく伝わってきました。救急搬送に付き添って母の最期を見届けてくださった生徒さんからは詳しく話をうかがいました。
母は亡くなった当日、NHK文化センター梅田教室で午前午後二つの教室があり、午前の教室をいつも通り終えた後、午後の教室が始まる前に座って生徒さんと雑談をしている最中にスーッと前のめりになって、そのまま息を引き取ってしまったそうです。前日の孫の運動会の話をしていたそうで、いつも走り回っている孫が駆けっこでビリだったと笑いながら、だったので、てっきり生徒さんたちは冗談だと思って、顔を上げておかしなことを言うのを待っていたそうです。そんな死に方、聞いたことないですが、目撃者がたくさんいるので、本当のようです。大好きなヨーガをしながら、大切な生徒さんたちの前で、大好きな孫の話をしながら亡くなったんだと思うと、母らしい気もしてきました。
孫は高知にいるので、運動会の様子は動画で見たものでした。兄夫婦と母と私のグループラインで送られてきたものだったので、私も同じものを見ていました。一生懸命走っていない姿でした。私にとっては甥ですが、小学校1年生で、1月に母と一緒に高知へ行ったのは、この甥が高知大学付属小学校を受験するというので、試験を受ける間、下の子(姪)の面倒を私と母が見るということで行っていました。
実は直前になって受験を決めたのもあり、ひらがなもろくに書けない状態だったのでまさか受からないだろうと思ったら、なぜか受かって、みんなで焼肉でお祝いをしました。母と兄一家と一緒に食べた最後の食事になりましたが、この時撮った写真を見たら、母の楽しそうなこと。人生最高の瞬間だったかもしれません。
母はヨーガ教室でよく孫の話をしていたようで、お通夜でも「岳(たける)くん」とみんなに呼ばれてアイドルのようでした。めちゃくちゃやんちゃで、おばあちゃん(母)は手に負えず、そんな話をよくしていたんだろうと思います。
岳は、母が最後に自分が駆けっこでビリだった話をしていたのを聞いて、「ひろばあちゃん、僕がびりやったから死んだん?」とおかしなことを言っていました。
私は母がこの続きで何を言おうとしていたのか、知っています。「玄(兄)がそうだった」という話です。兄も幼い頃、家ではのびのび元気に走り回るのに、幼稚園に行くとしゅんと縮こまって、運動のできない子になっていたそうです。ところがある日、何がきっかけだったのか、お風呂で「玄ちゃん、明日からがんばる!」と言って、本当に次の日から幼稚園でものびのび運動のできる子になったそうです。それを私は母から耳にたこができるくらい聞いていました。母は昔の息子を思い出しておかしく、笑っていたんだと思います。
岳はまだ1年生なので、死というものをよく分かっていないとは思いますが、葬儀の翌日、高知へ戻る時、「彩ちゃん、死んだらいかんで!」と言ってくれました。

HELLO

2023.6.9

雑記

母、成川弘子さんのこと③

韓国語学留学を終えた母は、韓国や韓国語のことよりも、一緒に学んだ各国の若者たちのことをよく話していました。「見た目が違っても、みんな同じ人間なんやな」という、当たり前のことを実感したようです。それを実感できただけでも行った甲斐があったと話していました。
曽根崎署からおばの家に向かい、親戚たちとお通夜や葬儀について話し合いました。親戚が勧める葬儀場に連絡し、担当者がおばの家に来て、大小さまざまなことをどんどん決めていきました。結婚式なら持ち帰ってゆっくり考えて決められるものが、お通夜、葬儀は時間との戦いでした。突然亡くなったので、お葬式はどうしたいという希望を聞いたこともなく、だけどもお寺でもヨーガを教えていたくらいなので、仏式でやるのは自然だろうと思い、仏式にしました。
21日に亡くなったので、本当は23日お通夜、24日葬儀にしたかったのが、24日が友引で避けた方がいいということで、かなり慌ただしく22日お通夜、23日葬儀となりました。23日は母の誕生日。本当は韓国で一緒に誕生日を祝うはずだったのにと思いつつ、他に選択肢もない状況でした。
ずっと先のこととは思っていましたが、母が亡くなった時には、ヨーガの関係者に連絡しないとと思っていました。母は私が生まれる前からヨーガをやっていて、30年以上講師を務めました。ただ、いざ直面するとあまりにも時間がなく、とりあえず家族葬にして、ヨーガの関係者には後日お別れ会という形で別途集まっていただこうと思いました。ところが、亡くなったのがヨーガ教室だったのもあり、私からはヨーガの関係者数人にしか電話していないにもかかわらず、すでにかなり多くの人に連絡が回ってるということで、家族葬にせず、来ていただく分には来てくださいということにしました。
おばの家で話し合っている最中、曽根崎署から電話がかかってきて、一度母の家に行って、荒らされた形跡がないか、薬や診察券などがないか、早く確認してほしいと催促されました。従姉の車に乗せてもらい、確認に行きましたが、予想通り、荒らされてもなく、薬も診察券も見つかりませんでした。テーブルには最近私が新しく作った名刺が飾ってあり、いつものように私のために切り抜いてくれた新聞記事が重ねてありました。母の家には私の部屋があり、クローゼットを開けると喪服がありました。
晩ご飯はほとんど喉を通らず、横にはなりましたが、一睡もできませんでした。翌朝、まず電話したのは、かしいけいこ先生でした。母のヨーガの師匠です。長崎の壱岐島にいらっしゃり、母よりも14歳上でご高齢なので、お通夜や葬儀には来られないとは思いましたが、きちんと私から知らせるべきだと思いました。私の電話で初めて知って驚きつつ、7月8日に母が壱岐島に会いに来ることになっていたと教えてくださいました。私が4月に大阪へ戻る時、母に韓国から買って来てほしい物を聞いたら、かしい先生に九尾狐(クミホ、伝説上の生物)の絵本を買って来てほしいと言っていたのですが、7月に会う時に持っていくつもりだったようです。かしい先生も韓国語を勉強されていて、たまに電話や手紙でかしい先生が韓国語でこんなことを言ってきた(書いてきた)と、うれしそうに話していました。葬儀を終えてから、かしい先生に本を送りました。
かしい先生からは、こんなメッセージが来ました。
「ヨーガにはeternal lifeの死生観があります。今となっては、祝福してお見送りしたい気持ちです」
もちろん亡くなって母に会えないという事実はとても悲しいですが、母と死生観についてもよく話していたのと、一緒にインドに行った時の経験もあって、私にはすんなり入ってくる言葉でした。
インドに行ったのは、2018年の夏でした。私はこの年の夏、実は北朝鮮へ行こうとしていました。4月に南北首脳会談があり、劇的に南北が融和に向かった時期でした。何度も北朝鮮を訪問している朝鮮学校の関係者たちと一緒に行こうとしたのですが、私だけ旅行社に断られました。たぶん朝鮮総連がダメだと言ったんだろうと思いますが、理由はよく分からず、関係者の話では元朝日新聞記者だから警戒されているのでは、ということでした。成川彩で申し込んだのですが、パスポートは結婚後の姓なので、それで申し込んだら通るかもしれないと思って母に言うと、猛反対されました。バレたらどうなるか分からない、と。そんな怖いことはないだろうとは思いつつ、母の猛反対を押し切ってまで行きたいわけでもなかったのであきらめました。
北朝鮮に行くつもりだったのが行けなくなったのもあり、母がヨーガの先生たちと一緒にインドに行くのに、私もついて行くことにしました。私は高校生や大学生の時はたまに母が教えるヨーガ教室に行ってヨーガを習いましたが、朝日新聞に入ってからは忙し過ぎてぱったりやらなくなって、体はがちがちに硬くなっていました(今もですが)。ヨーガの先生方にまじって一人ど素人でしたが、私はこの時一緒にインドに行って良かったと、心底思っています。
行ったのは、ヨーガの聖地と言われるリシケシ。アシュラムと呼ばれる道場で寝泊まりして修行に参加しましたが、印象的だったのは、アシュラムのトップの人(?)の部屋で、それぞれ相談したり、質問したりする時間。母は、孫が生まれて歯科を営む息子夫婦が大変なので手伝ってあげたいけども、大阪でヨーガを教えながら高知に通うのは大変で…という悩みを打ち明けました。私にも何度か引退して高知に移住しようか、と話していました。当時すでに70近い歳で、他の職業であれば引退して当然なのですが、私は母が健康な間はできるだけヨーガを教えてほしいと思っていました。私には母にとってヨーガは仕事というよりも生きがいのように見えて、教えるのをやめた途端に老け込んでしまうような気がしていました。
母の悩みに対する答えははっきり覚えていませんが、たしか、子は親の責任だけども、孫は子の責任というようなことをおっしゃった気がします。それよりも記憶に残るのは、そのトップの人(すみません、適切な呼称が思い出せず…)に誰かが「次はどこへ行きたいですか?」と聞いた時、にっこり笑って天を指さしたことでした。講演で世界各国を回ってきたという方なので、次はどこの国にという意味の質問だったのですが、答えは「天」でした。たしかその数カ月後に亡くなったと聞きました。
インドでは亡くなると葬儀はお祭りのようににぎやかに祝う(インドでも様々だとは思いますが)という話も聞きました。この時の記憶もあって、かしい先生の「祝福してお見送りしたい気持ち」という言葉は、ごく自然に入ってきました。
亡くなった翌朝も、葬儀場の担当者が母の家に来て、前夜決められなかったいくつかを決めていきました。一つは葬儀場に飾る母の遺影でした。遺影として撮ったものはなく、背景は加工できるということだったので、今年1月に母と兄一家と私と高知で初詣に行った時の写真を使おうと思っていました。ただ、担当者に見せると、悪くないけども、母の片方の肩が上がっているのが修正できないので、もし他にも写真があれば見せてほしいと言われました。
私も兄もスマホの母の写真を探しましたが、適当なものが見つからず、焦って母のアルバムを開きました。コロナの間に整理したようで、私の見たことのないアルバムでした。開くと1ページ目に私と兄の幼い頃の写真が貼ってあり、その下に母の手書きの文字で「私のたからもの」とありました。また涙があふれそうでしたが、とにかく遺影になる写真を探さないととページをめくり、見つけたのがインドに行った時の写真でした。とても母らしい、いい笑顔で、担当者もこれなら良さそうだと言うのでホッとしました。横には私が写っていましたが、爽やかなブルーの背景に加工してもらい、娘としては満足な遺影となりました。

2023.6.4

雑記

母、成川弘子さんのこと②

新大阪駅のホームでは、東京から駆け付けた夫が待っていました。すでにおば(母の姉)の家に大阪の親戚が集まっていて、そこへ向かうつもりでした。高知の兄はいったん高知空港に向かっていたところ、私から亡くなったという電話を受け、喪服をとりに家に戻り、一家(子どもが2人います)で車で大阪に向かうことにしたというので、私よりだいぶ遅れる見込みでした。
新幹線の中で電話をかけたり受けたりしている間、知らない番号からかかっていたのでかけ直すと、曽根崎警察署でした。病院以外で亡くなった場合は事件性の有無を警察が調べるそうで、私や兄の到着を待たずに病院から警察に母が移送されたことは親戚から聞いていました。その電話は「お母さんに会いたければ、曽根崎署に来たら対応します」という内容で、会えるなら会いたいと思ってタクシーで曽根崎署に向かいました。
恐る恐る見た母の顔は、びっくりするくらい穏やかな顔でした。私はこの時まで母がどういうふうに亡くなったのか詳しいことは知らず、苦しい顔をしているものと思い込んでいたので、少しホッとしながら、母の冷たい顔を触りました。「お母さん、ありがとう」としか、かける言葉はありませんでした。
担当者はこの日当直で、何時に来ても対応できるということだったので兄に電話し、「お母さんの顔、見てあげて」と言うと、ここで初めて兄が泣き崩れました。実感がわいたんだと思います。
まだ事件性の有無がはっきりしないということで、その日母が持っていたかばんは返してもらえませんでした。生徒さんの目の前で亡くなったので、事件性も何も…とは思いましたが、警察の方でも、そんなに急に元気だった人が眠るように亡くなるのは変で、死因特定が難しいということでした。
私は今回は大阪へ来る予定がなかったので、母の家の鍵を持って出ておらず、母のかばんの中から鍵だけでも返してほしい旨伝えると、翌日また曽根崎署に返しにくるよう言われました。母が通院していなかったか、薬を飲んでいなかったか、聞かれましたが、普段から本当に病院にも行かない、薬も飲まない母で、4月に母の家で数日泊った時も、何も飲んでいませんでした。かばんの中にあった手帳を開いて見ても、美容院と歯医者の予約は書いてあっても、その他の病院については一切ありませんでした。それでも、警察からは「家に帰ったら、まず、薬や診察券を探してみてください」と頼まれました。もしかして私が甲状腺がんで手術したばかりで、体調が悪くても言えなかったんだろうかと思ったり、でも23日から韓国旅行なのに、心配なら何か言っただろうと考え直したり、もやもやした気持ちで曽根崎署を離れました。母を警察署に置いていくのはつらかったけど、翌日午前中に監察医が来て調べるまでは仕方がないそうで、家族の思い通りにはならないものなんだと痛感しました。
母の手帳を開いた時、表紙裏のポケットに「筑摩書房新刊」というメモが見えました。私が日本で初めて単著で出す本『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』(5月31日発売)は、誰よりも母が楽しみにしてくれて、筑摩書房に30冊も注文していました。ああ、結局母に読んでもらえなかった…と、もっと早く出していれば…、ゲラ刷りのPDFでも送っておけば良かった…という後悔がよぎりました。
母のかばんの中にはスマホもあり、手帳もスマホも返してもらえない状態では母の知り合いに連絡するのが難しく、すぐにお通夜と葬儀に向けて連絡したい遺族にとって、持ち物を返してもらえないというのは、本当に困ることだと知りました。とはいえ、万が一事件性があった場合にはスマホや手帳は重要な証拠になる可能性が高く、返してもらえないことに納得できないというわけではないのですが、こういうことを多くの人が経験しているんだというのを初めて知りました。手帳に書かれた連絡先は写真を撮らせてもらいました。
私が何かを選択する時の基準は、「私が後悔しないように」です。朝日新聞大阪本社に勤めていた頃、認知症の取材を担当したことがあり、かなり多くの認知症の家族を看取った人たちに会って話を聞きました。この時気づいたのは、みんな後悔しているということでした。「あれができなかった、ああしてあげれば良かった、あんなことでけんかするんじゃなかった」と、悔いているのを見て、私は悔いのないようにしたいと思いました。それでも後悔することはたくさん出てくるんだろうけども、残された家族がそれで苦しむのは、亡くなった家族の望むことではないだろうと感じました。
母が子育てを終えたらやりたいと言っていたのは、二つです。インドにもう一度行きたいということ、韓国に語学留学したいということ。やりたいことを全部やらせてもらった娘として、この二つを実現することが目標でした。結論から言って、二つとも、実現しました。
亡くなってから、母のことを「利他の人でした」と言ってくれる人がたくさんいました。母は自分以外の人たちには尽くすけども、自分のことに関しては本当に欲のない人でした。だから、私にはずいぶん前からインドに行きたい、韓国に語学留学したいと言っていたのに、なかなかそれを実行しようとはしませんでした。家族やヨーガの教室が気がかりだったのだと思います。
先に実現したのは、韓国語学留学でした。2016年に3カ月間、ソウルの慶熙(キョンヒ)大学に留学しました。66歳で行って、67歳の誕生日は留学中に迎えました。教室で外国人の若者たちに囲まれて誕生日を祝ってもらう写真を見せてくれました。
実はこのタイミングで私も朝日新聞を辞めて、一緒に留学するつもりでした。私は2016年1月に会社の上司に退社の意図を伝えましたが、育休・産休などで空席があるのもあって、せめて今年いっぱいは勤めてほしいと言われました。迷いましたが、お世話になった会社をできるだけ円満に辞めたい気持ちもあり、結局2017年1月に退社しました。
とはいえ、すでに母は4月から3カ月のヨーガ教室の代行を頼んでいて、行かないのはもったいない状況でした。最初の数日は同行して家探しなど手伝って、3カ月の間にもう一回、母に会いに行きました。毎日課題でいっぱいいっぱいで他に何もできないと嘆いている母を見て、本当にまじめで不器用な人なんだと思いました。
母の歳で3カ月韓国に語学留学というのは、韓国語も勉強しながら、韓国生活を楽しむものだと想像していました。好きな映画やミュージカルも見て、謳歌してくれるものと思っていたら、毎日授業の後も課題ばかりやっていて、「お母さん、別に点数悪くてもいいやん。やりたいことやってよ」と言っても、あまり響かないようでした。
実は家でもずっとそうでした。家事以外の時間はずっと、ヨーガをしているか、ヨーガの勉強をしているか。そして食後は韓国映画かドラマをちょっと楽しむ。何をそんなに勉強することがあるのだろうと思いますが、ヨーガは単に体操ではなく、瞑想、宗教、哲学であり、深く深く、勉強していました。インドにもう一度行きたいと言っていたのも、ヨーガの修行のためでした。
韓国語学留学の経験は、「66歳からの韓国留学」というタイトルで、神保町の韓国ブックカフェ「チェッコリ」で報告しました。この時のこともあり、チェッコリの金承福社長は母の訃報を聞き、お花を送ってくださいました。私もチェッコリで何度かトークをしたことがあり、今回の新刊記念で6月15日にトークをさせていただく予定です。母が亡くなる前に決まっていたものですが、チェッコリもまた、母の思い出のある場所です。

2023.6.2

雑記

母、成川弘子さんのこと①

5月21日、母が亡くなりました。本当に突然のことでした。
5月23日が74歳の誕生日で、この日から4泊5日、韓国へ旅行の予定でした。私は5月21日は福岡出張中で、22日に韓国へ戻り、23日に母と仁川で合流してソウル、済州の旅を一緒に楽しむことになっていました。「誕生日プレゼント何がいい?」と聞いてもいつものように「何も要らない」と言うので、「じゃあ、おいしいケーキ買って一緒にパーティーしよう」と話していました。ソウルで一緒に見るミュージカルも予約して、旅行のことで何度も電話でやりとりしましたが、どこか体調に不安のあるような話は一切ありませんでした。
母は私から見れば、何でも一生懸命、まっすぐすぎて、ちょっと不器用で、かわいらしいところもある、そんな人でした。母ですが、親友のように仲が良く、見た映画やドラマ、読んだ本、出会った人のことを、その都度電話で話していました。いつもおもしろがって聞いてくれたし、私が勧めた映画やドラマは見られる限り、見てくれました。
私の結婚式の時、母への手紙の中ではこんなエピソードを話したのを覚えています。
私が幼い頃、父と母が離婚し(その後同じ父と再婚し、また離婚しました)、私は母と家を出ました。母と2人暮らしの頃、たぶん4歳くらいだったと思います。雨の日に傘を差しながら、自転車のかごいっぱいに買い物を入れ、私が後ろの子ども用のイスに座って、よろよろと自転車をこぐ母。私は幼いながら、「お母さん、危ないな」と思っていたら、案の定自転車が倒れ、母は本当に泣きそうになりながら、「彩、大丈夫? けがしてない?」と慌てふためいていました。幸い、どこもけがなく、私は余裕の笑顔で「お母さん、車買おうね」と言いました。
シングルマザーとなった母がお金があるのかないのか、4歳だったので、まったく分かってなかったと思います。母は私の言う通り、車を買いました。ドアもまともに開け閉めできないようなおんぼろの車でした。
私は今年3月半ば、甲状腺がんで韓国で手術を受けました。幸い初期で、手術すればほとんど心配のなさそうなものでしたが、声がなかなか回復せず、母はとても心配していました。日本で手術することも考えましたが、私が韓国で住んでいる所から徒歩圏内に国立がんセンターがあり、私と周りの負担を最小化するため、韓国で受けました。
当然、母は付き添いに来ようとしましたが、付き添いはコロナの影響で1人だけで、韓国の友達が会社を休んで付き添ってくれることになりました。私としては韓国語が片言の母が来てくれても、患者の私が母のケアをする余裕がなさそうだったので、元気になったら韓国に遊びに来てとお願いし、それが5月23日からの旅行でした。
母が心配しているので、とりあえず元気な姿を見せようと4月上旬に一度、大阪へ行きました。それが生きている母に会った最後となりました。いつも帰国時は、最寄りの駅まで迎えに来てくれる母ですが、この日は「関空に迎えに行く」と言い、私は笑いながら「お母さん、車で来てくれるんじゃなかったら、関空来てくれてもあんまり意味ないで」と言いましたが、「いいの、行くから!」と、有無を言わさぬ勢いで、来てくれました。
その日は雨で、最寄り駅から母が傘を差して私のトランクを引き、私が何度も「お母さん、いいよ、彩が引くから」と言っても聞き入れず、雨の中ガラガラと家まで引いてくれました。
翌朝、母は「彩、お母さんちょっとしんどいから、朝ご飯適当に食べてくれる?」と言っていつもより2時間ほど長く寝ました。起きてきて、「やっぱり無理したらあかんな」とぼやいていて、私は大昔の自転車転倒事件を思い出していました。
私は母が2時間眠っている間、内心ヒヤヒヤした気持ちでいましたが、起き上がってくると元気で、その日は一緒に黒門市場に行って(私の取材のため)、おいしい天ぷらそばを食べ、私の服を買いに行きました。手術の跡が見えないよう、ハイネックの服を買うためでしたが、4着全部、気前よく母が買ってくれました。いい、いいと何度も私が出そうとしましたが、手術の時に韓国に行けなかった代わりなのか、とても強引でした。
私が中学3年生の時に2度目の離婚をして、決して経済的に余裕のある環境ではありませんでしたが、母はヨーガ一つで生計を立てて、兄と私を育て上げました。私は留学して大学院まで、兄は浪人して歯学部で、一般的に大学に通うよりもずっと長く、母のすねをかじりました。中学、高校の友達はそれなりに私の家庭環境を知っていましたが、大学に入ると、なぜか私は裕福な家庭で育ったと勘違いされることが多く、そのことを母に言うと「だってお母さんがお嬢様みたいに育てたもん」と、うれしそうでした。そういえば、私は母と最初に家を出た時も、駅前のバレエ教室を通るたびに見るバレエに憧れ、「彩、あれやりたい!」と言って習わせてもらいました。お嬢様みたいに、とは口が裂けても言えないけど、でも、母はやりたいことはすべてやれるようにと、いつでも全面的にサポートしてくれました。
お葬式の時、母と家族のように親しかった人(私も母と一緒によく会っていました)に、「母に関空まで迎えに来てもらえた1カ月前の自分がうらやましい」と泣きながら言いました。これから大阪へ行くたびに、母に迎えに来てもらえない寂しさを味わうんだろうなと思うと、それだけでも涙があふれてきました。
母は長年ヨーガ(母はヨガではなく、ヨーガと言ったので、ここではヨーガとします)の講師を務め、指導者を養成する立場でもあったので、お弟子さんがたくさんいることは知っていましたが、亡くなって、お弟子さんたちから話を聞いたり、母が書き残した文章、亡くなった時の様子を聞くにつれ、私がよく知っている人間らしい母よりも、「聖者のような人だった」と思えるようになってきて、娘が言うのも変ですが、不思議な気持ちです。
今日は高知のお弟子さんに電話しました。あまりにもバタバタで、大阪のヨーガの関係者はある程度お通夜、お葬式に来てくれましたが、高知のお弟子さんまで連絡する余裕がありませんでした。母は10年間高知でヨーガを教え、大阪へ戻ってからも、かなり長い期間高知へヨーガの指導に通っていました。
そのお弟子さんは、母の訃報を聞いて、高知で歯科を営んでいる兄の所へ訪ねて来て、母がかつて目がよく見えない自分のためにヨーガの本をテープ何本分も録音してくれたという話を聞かせてくれました。それを兄と私に伝えたかったそうです。今日電話した私には「お母さん、早かったけど、でもやることはやりきって逝かれたのかもって気もするね。本当にヨーガをしながら、蓮華座を組んだ状態で、亡くなられたんでしょ?」と言われました。
そう、信じられないようなことですが、母は、ヨーガをしながら、蓮華座というヨーガの基本のポーズ(パッと見はあぐらのような姿勢)をした状態で、生徒さんたちの目の前で亡くなりました。
5月21日、私は福岡にいました。前日、午前中に西南学院大学で講演をし、午後はKBCシネマで『オマージュ』の上映後、シン・スウォン監督とトークを終え、この日はシン監督と糸島にレンタカーで遊びに行っていました。
私が最後に母へ送ったラインは、シン・スウォン監督とトークをしている写真です。私は単にシン監督のファンというだけでなく、シン監督の一言に影響を受けて朝日新聞を辞めて韓国へ映画を学びに留学したほど、シン監督は私にとって特別な存在です。そんなシン監督の作品がやっと日本で劇場公開され、一緒にトークイベント、というのは私の一つの大きな達成感を感じるイベントでした。母もシン監督のデビュー作『レインボー(虹)』が2010年になら国際映画祭で上映された時(この時私はシン監督の通訳を担当しました)に見ていて、その後もソウル旅行中にちょうど『冥王星』がソウルで公開中で、シン監督と出演者のトーク付で私と一緒に見て、『オマージュ』は大阪の劇場で一人で見て「すごい良かった」と話していました。母は実家がかつて映画館を営んでいたのもあり、古い映画館が出てくる『オマージュ』は特に感慨深いものがあったようです。トークが終わって、見に来てくれた福岡の知り合いとシン監督と私で居酒屋に行き、いろいろ話していたなかで、私は祖父母が営んでいた映画館の写真と、その前で撮った幼い母の写真を見せました。釜山国際映画祭の執行委員長を長年務めたキム・ドンホさんが今、映画館にまつわる短編映画を撮っていて、母の実家の映画館の写真を見たいと言っていたので、4月に母の家に戻った時に写真を探し、スマホで撮っていたものでした。
話がまた逸れましたが、糸島でまずは海を眺めながらゆっくりお茶をして、お昼ご飯の店に入ったら人気店で順番待ちでした。名前と電話番号を書いて、店の前の港でぷらぷらしていた時、義姉(兄の妻)から電話がかかってきました。めったにかかってこないので、ドキッとしながら受けると、「まだ詳しいことは分からないけど、お母さんがヨーガの教室の間に倒れて、意識不明で病院に搬送されたみたい」ということでした。私はその場に座り込んで泣きじゃくり、シン監督が何事かと心配して駆け寄ってきました。
電話の内容をシン監督に伝えながら、私はなんとなく、母と今生でのお別れのような気がしました。倒れたというNHK文化センターに電話をして状況を聞いたら、「心臓マッサージもしたんですが…」ということだったので、覚悟をして、心苦しかったけどもシン監督を糸島に残したまま、博多までレンタカーを走らせました。とにかく私が今取り乱して事故でも起こしたら大変なので、しっかりしないとと思いながら、でもいろんな思いがよぎって涙があふれながら、運転しました。返却する数分前からスマホが何度か鳴っていたので、たぶんそうだろうとは思いましたが、返却してすぐにかけ直したら「彩ちゃん、お母さんダメやったわ」と真っ先に病院に駆け付けた従兄が伝えてくれました。「玄ちゃんには彩ちゃんから言ってくれる?」と言われ、すぐに兄に電話をかけましたが、「え、どういうこと?」と、まったく理解できない様子でした。飛行機の時間を検索する気力もなく、とにかく博多から新大阪へ向かう新幹線に乗り込みました。
新幹線の中でも、迷惑なのは承知で、いろんな所に電話をかけたり、かかってきたり、あっという間に新大阪に着きました。

2023.5.10

映画

筑摩書房から本出します『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』

このたび、5月末に筑摩書房から『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』という本を出版します。もうかれこれ執筆を始めて2年半ほどになり、その間、韓国映画とドラマの本を書いていると言っても、「どんな本?」と聞かれるとうまく答えられず、ちょっともどかしい感じでした。

こんな本です! と言える日がやっと来た。執筆が遅れ、これは本当に世に出るのかしらと不安になることもありましたが、なんとか、本当に出るみたいです。
韓国では2020年に『어디에 있든 나는 나답게(どこにいても、私は私らしく)』という本を出しましたが、これは中央日報の連載をもとにしていたので、そこまで生みの苦しみというのはなく、今回はゼロから編集者と目次を考え、こつこつ書き進めたので、ああ、本を出すのってこんなに大変なのかというのを初めてまともに経験しました。とはいえ、まず原稿ゼロの状態で「書きませんか?」と編集者に声をかけてもらえたこと自体、とても幸せなことで、やっと形になった今となっては感謝以外ありません。

内容についてざっくり紹介すると、全部で5章。
第1章 あいさつは「ご飯食べた?」
第2章 家族の存在感
第3章 #MeToo運動を経て
第4章 格差社会と若者の苦境
第5章 激動の韓国現代史
という感じです。

私自身が「なぜ?」と思ったことと、周りから「なぜ?」と聞かれること、その両方の答えを探してみました。特に2020年からコロナ禍でネットフリックスを通して韓国ドラマを見る人が増え、これまで見ていなかった新聞社の先輩とか、いろんな人からドラマで見ていて気になることを聞かれるようになりました。即答できるものもあれば、そういえばなんでだろうと調べるものもあり、それがこの本の執筆につながりました。

例えば第1章の①は「チキン店が多いわけ/早期退職者のお手軽開業」
とにかくドラマ『愛の不時着』以来、日本で韓国のチキンに対する関心がグーッと上がって、コロナ禍で韓国チキン店が日本でもいっぱいできたけども、それでも韓国のチキン店の多さにはまったくかなわない。世界のマクドナルドの総店舗数よりも韓国内のチキン店の数が多いくらい。
『愛の不時着』のほか、ドラマ『応答せよ1997』(おきまりのサッカーテレビ観戦時のチキン。そしてそれはやっぱり日韓戦。これは『愛の不時着』も同じ)、そしてチキンの映画と言ってもいいくらいのメガヒット映画『エクストリーム・ジョブ』に言及しながら、韓国のチキンにまつわるあれこれを書いています。

映画・ドラマそのものよりは、その背景になっている実際の韓国にフォーカスした内容です。
興味のある方、お読みいただけるとうれしいです。

2023.3.27

映画

朝鮮学校無償化訴訟追ったドキュメンタリー「差別」

キム・ジウン&キム・ドヒ監督のドキュメンタリー映画「差別」が韓国で公開中で、私は2021年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭の時から何度か見ていたが、未見の友達と一緒に見に行った。
キム・ジウン&キム・ドヒ監督との付き合いは前作のドキュメンタリー映画「航路 済州、朝鮮、大阪」が大阪で劇場公開された2015年から。この映画も在日コリアンにまるわる映画で、特に理解の難しい「朝鮮籍」について、韓国へ入国できない(政権によって変わる)という問題を2人の在日演劇人を対比させながら描いていた。この時私は朝日新聞大阪本社所属で、監督へインタビューしたのをきっかけに親しくなった。2人は釜山の監督で、釜山国際映画祭に行くたびに一緒に飲みに行くようになった。
「差別」は朝鮮学校無償化訴訟を追った映画で、私は監督たちが訴訟判決が出るたびに日本へ撮影に通っているのをずいぶん前から知っていた。朝鮮学校を高校授業料無償化の対象から除外したことをめぐり、朝鮮学校側が国を相手取って起こした訴訟で、東京、大阪、名古屋、広島、福岡で訴訟を提起したが、最終的にはいずれも原告敗訴となった。敗訴のニュースが流れるたび、監督たちの顔が目に浮かんだ。原一男監督のドキュメンタリー映画「ニッポン国VS泉南石綿村」のように原告勝訴となれば、映画もドラマチックな結末を迎えられるが、原告敗訴では厳しいだろうと思ったからだ。
「差別」の韓国での公開(3月22日)に先立ってソウルで開かれた試写会では上映後のトーク進行役を頼まれた。この日の登壇者はキム・ジウン&キム・ドヒ監督のほか、映画に主役級で登場する俳優のカン・ハナさん、キム・ミングァン弁護士、そして「朝鮮学校『無償化』排除に反対する連絡会共同代表の佐野通夫先生の計5人+司会の私。


写真は俳優のカン・ハナさん。映画撮影当時は朝鮮学校に通っていた

1時間にわたっての質疑応答、通訳としては何度も経験しているので、韓国語での進行とはいえ、通訳する時みたいに必死でメモする必要もなく、登壇者の皆さんもよくしゃべってくれて、案外楽だった。
この試写会後のトークと、公開後に見た時の上映後のトーク、共通して出てきた話の一つは、朝鮮学校の生徒へのインタビューシーンで、祖国は北朝鮮、故郷は韓国と答えた点だった。これは多くの韓国の人にとっては理解の難しい部分なのかもしれない。
在日コリアンの多くが朝鮮半島の南側(分断前)出身だが、祖国の言葉や文化を学ぶ学校を支援したのは、北朝鮮だった。韓国系の学校もあるにはあるが、朝鮮学校に比べると少ない。その他にも様々な背景はあるが、印象的だったのは、キム・ジウン監督の「仮に北朝鮮を支持していたとしても、だからといって、差別されていいのか」という指摘だった。
この訴訟にはキム弁護士のような在日だけでなく、日本人の弁護士もたくさん参加した。それは朝鮮学校を守ろう、というだけでなく、国による差別に抗議するという意味合いも大きかったのではなかろうか。裁判の結果は原告敗訴だが、日本でも韓国でも支援の輪が広まり、こうやって映画にもなって、この問題について考えるきっかけができたのは、訴訟を起こした最大の成果だったように思う。
日本では大阪のシネ・ヌーヴォで4月1日から上映予定だそうです。